記事No | : 1702 |
タイトル | : 人間が神になる |
投稿日 | : 2012/10/19(Fri) 12:43:39 |
投稿者 | : 桃青 |
中学か、高校か、多感なころ、こんな詩を読んだ。
「義務があなたにやりなさい。と囁き、
あなたが、やります。と、答えたとき、あなたはまた一歩神に近づくのだ。」
同時にこんな詞を読んだ。
「選ばれてあることの恍惚と不安。」
私は、思わずうぇ〜と、頭を抱えて走り回りたくなるほど、恥ずかしさに顔が赤くなった。
なんというナルシスト、なんというエエカッコシイ、
上は、誰の詩かは知らないが、下は信奉者というほどのファンを持つ有名な詩人の言葉である。
それでも、私は、その言葉に感動も共感もなく、恥ずかしくてたまらなかった。
今でも恥ずかしい。
だから、私は、キリスト教にも某M教にも向いていないのだろう。
某M教の「人間は神になる」からは、二つの詩と同じエスプリが伝わってくる。
某M教で「努力すれば神になれる」と教えられ、自分は昇栄して神になろう、と、励んだひとが日本にも昔はいたと聞く。
その精励恪勤ぶりには、頭がさがる。
が、そういうひとは神になって一体何がしたかったのだろう?
「なすべき義務を果たせば、神に近づく」と詠った詩人は、どんな目的で神に近づきたかったのだろう?
おそらく何がしたい。ということもなく、高いところへ舞い上がって、「私はこんなに高いところへ来た!」とただ思いたかっただけなんじゃないかしら?
某M教の人々に、「なぜ、そんなに某M教が世界に広まって欲しいのですか?」
と、問い掛けて確たる返事が来たことがない。
教義は信じていないし、何のために某M教が世界に広まってほしいのか、考えたこともない。
それでも、某M教が世間で高く評価されることを願い、信者数が増えることを願う。
そのこころは、高いところへ舞いあがって、「こんなに高いところに私はいる」と、ただ思いたいのとなんだか似ているように見える。