記事No | : 1750 |
タイトル | : 約束事て動く世界 |
投稿日 | : 2012/11/18(Sun) 12:28:20 |
投稿者 | : 桃青 |
さすがに話がうまいなあ。とは、思うものの、
これを阿頼耶識やマナ識、愛アラヤをまったく知らないままに聞いたら、どうなのだろう?
とも思う。
阿頼耶識、愛アラヤに関する硬い繊維質な説明を何とか消化しようとしているときに、こう言われると、「あ!」と何かがはじけることもあるだろう。
が、阿頼耶識や愛アラヤをまったく知らないでこれを聞くと、
「飾りでひとを判断してはいけない。」という道徳方向で捉えてしまいはしまいか?
確かに飾りで判断しないようにしよう、という心がけは大切ではあるが、それが道徳になってしまったとたん、それは飾りでひとを判断しているひとを「あれではいかんわな。」「あれは間違いだわな。」「飾りでひとを判断してはいないワシは、飾りでひとを判断しているあいつよりましだわな。」と、いうだけの話になってしまいがちだ。
それに、現実には、飾りといわれる「社会的に高い地位」「おカネ」「名誉」には、有頂天な喜びも楽しみもくっついてくる。
たとえ、次の瞬間に有頂天からまっさかさまに転げ落ちようとも、生きている間に一瞬でもそんな思いをしてみたい。
と、思うひとのほうが、転げ落ちることを恐れて、それらのものを手に入れるのはやめておこうというひとより、遥かに多いだろう。
なので、こういう説明だけに終始することは、
「言ってる本人がそれらの飾りで身を飾っているではないか。」
とか、身を飾っていない場合なら、
「なんだ負け犬の遠吠えか。」
という反発を引き出すことにもなる。
それでは、渡辺師も不本意であろう。