記事No | : 1915 |
タイトル | : Re: 病 |
投稿日 | : 2013/02/20(Wed) 10:49:00 |
投稿者 | : 桃青 |
> 病はいやですね。でも人間の定めなのでやむを得ません。
病にもいろいろありますからね。。
「定め」というと「人間は誰でも必ず病気になるものだ。」というニュアンスがあり、病気にならないひともいるのに、何か変だ、て思われたことはないですか?
どうみても、
「人間は誰でも病む可能性がある。」のほうが現実に合っているじゃないかと、思うのですが??
もっとも死は臓器の不全により引き起こされるものですから、そういう意味では、病は定め、かもしれないです。
よく仏教の解説者は
「病気は金持ちにも貧乏人にも公平に訪れる。人間にとってもっとも公平なもの。それは病気だ。」
と、解説しますが、貧乏でなかったら罹らなかったであろう病気のほうが、金持ちならではの病気より遥かに多いのではないか?
これも、どうも納得できないのです。
生活レベルが平均化している日本で、「心筋梗塞は金持ちだからといってならないわけではない。」「ウィルスは相手が金持ちだから、貧乏人だからと選んで感染するわけではない。」と、解説されると、
「なるほどー」って、座の一同、頷くのですが、はてさて?
> 65歳を過ぎての病は、単純なケガ、打ち身、骨折などを除くとかなり厄介です。
「老」が常に随走するようになりますからね。
> がん、脳卒中、肝硬変、腎臓病などが主体になるからです。
> 若い頃の暴飲暴食や不規則な生活のつけが現れてきたのです。
どうなんでしょうね。
若いころからの節制は、たしかにそれらの病気になるリスクは減らすかもしれませんが、節制してこられたかたでも、それらの病気になるかたもおられますよ。
「あんなに節制して来たのに、なぜだ!!」と、驚き嘆くのと
「若いころからムチャしてきたから、しかたないわな。」と、あきらめるのと、どちらがどうなのか・・・。
> でも入院するのは嫌だな、どんなに設備が揃っ良い環境の病院でも、病院独特の雰囲気に馴染めません。でも仕方ないかぁ〜。
>
私も病院独特の雰囲気には馴染めません。
でも、ひと様々で「病院が好き」「病院も悪くない。」というかたもおられるのですよ。
>数が少なかったこともあるが、在宅治療が多かったようです。離れの小部屋を病室代わりにし、息子の嫁さんたちが交互に介護してました。
> そして、週に何回か医者が自転車で往診に来ていたようですが、医療技術や薬の効用が現在と比較にならないくらい低かったので、殆どの人が助からなかったようです。
> 臨終の間際に特に親しかた親族や友人を呼び、最期を看取ってもらっていました。病人に対する人間的な温かみがあったようです。
>
それはある意味理想かも。。。
でも、昔でも、そういうかたばかりでもなかったはずですけど。。
> 現代は、夫ががんや肝硬変になると、病院に入院させてあとは知らん顔。まぁ〜世間体もあるので、月に数回見舞いに行く程度です。
確かに、知らん顔のかたもおられるけれど、毎日のように通うかたもおられますよ。
通いたくても通えないというかたもおられるだろうし・・・。
人間てほんと様々です。
でも、誰でもそれがその時は精いっぱいなんですよね。
> そして病院で病死、あとは葬儀屋の指示でお通夜、告別式、火葬と機械的に進行します。脳卒中や腎臓病(透析が必要)で長持ちしそうな患者は、介護付き老人ホームに送り込まれます。
>
「ホーム」と名のつくところは費用がお高いのですよ。
お覚悟を。
> あと20年も経ったら、超超高齢化社会、受け入れてくれる病院も無く、介護付き老人ホームへの入所も5千万円以上必要になるでしょう。ましてや在宅治療に協力してくれる家族は皆無だと思います。
>
> 対策として日本伝統の姥捨山制度を復活するしかないようです。
姥捨て山制度は悪くないと思います。
自宅に居たいと思う者には自宅が、施設で最後まで、と願う者には施設が、姥捨て山になれば良いと思います。
具体的には、80歳以上には積極的な医療を施さず、緩和ケアのみ、というのはどうでしょうか?
緩和ケアだけでも体力のあるかたは、長生きされるでしょう。
「自然に優しく」最後の何年かを過ごすのが、現代版「姥捨て山」の姿で、「姥捨て山は花盛り。」となるのが、私の理想です。