記事No | : 1963 |
タイトル | : Re^3: 人間の本当の姿とは |
投稿日 | : 2013/03/25(Mon) 10:36:55 |
投稿者 | : 桃青 |
六波羅蜜を行ずることを「人間の使命」と捉える発想はどこから生まれたのか?
と、講師に尋ねてみたいけれど、これも立場上できない。
以下は私の推察なのだが、
亡くなった師匠が
「あの者は仏法をキリスト教的に捉えているから、心配だ。」
と、言い言いされていたので、御本人が独自に到達された境地なのではないかと思っているのだが、時折他の講師の口からも
「菩薩の使命」という言葉が飛び出すことがある。
が、そういう場合それは法華経に書かれてある「如来使」以上のものが付け加わることはない。
「ああ、如来使の使を流用して、菩薩の使命と言われているのだな。」
と、聞く。
ただ、その場合でも「せっかく如来使という言葉があるのだから、如来使とそのまま言っても良いのではないか。」という疑問は残る。
伝道の先輩達が使う「菩薩の使命」という言葉と、このかたのキリスト教的仏教理解が結びついて、「人間は誰でも果たすべき菩薩の使命をもって生まれるのです。」という説法となったのではないかと思っているのですが。
ことが人間に留まるのなら、まあ、良いのですが
「エビは人間に美味しく食べられるという使命をもって生まれたのです。」
となると、キリスト教の嫌な部分とそっくりでやり切れなくなって来る。
これもたぶん、そのかたなりの「悉有仏性」の理解なのでしょうが・・・。
果たすべき使命を神から与えれて生まれて、その使命を果たした者は、どうなる、こうなる。というようなことをキリスト教や某M教は言うが、仏教は決して言ってはいない。
この講師、とても良いかたで親身に檀信徒の悩みを抜苦与楽しようとされるところは、まさに利他行菩薩行の実践の姿、菩薩行の大切さを強調する日蓮宗でも、このようなかたはそうはいない。
と尊敬しているのですが、仏教的とは言えないファンタジーを説法されるたびに、「いや、もっと仏教は奥が深い。仏の智慧も慈悲も奥が深い。」と、もやもや感がつのって来る。