記事No | : 1988 |
タイトル | : 不幸 |
投稿日 | : 2013/04/05(Fri) 12:10:04 |
投稿者 | : 桃青 |
> 極楽トンボのような桃青さんと見受けたのですが、語御堂の介護に苦労されていることをしって、桃青さんも苦労してると思うこのごろ。
ふふふ。
亡くなった師匠は、説法の前振りによく
「幸福なひとはこんなところへ来ません。
ここへ来ているひとは、みーんな不幸なひとばっかりですよ。」
と、言っていました。
居並ぶものは、皆互いに顔を見合わせて力なく「は・は・は。」と、笑ったものです。
今から思えば、この師匠の話は、現実に何らかの問題、例えば会社の経営が思わしくない。子供の素行が悪い。旦那が家庭を省みない。自分自身のあるいは家族の病気、などなど。を抱えているひとを指して不幸なひとと言ったと同時に、仏教では満、不満といいますが、満たそうとして満たされないひと、つまりは人間全員を不幸なひと、と言われたのだな。
と、解ります。
亡くなった師匠はね、世間の苦労話をするようでちゃんと仏教の行苦、大乗の教えを踏まえて御話をされていたのだなあ。
と、今は解りますが、問題を抱えていた当時の私には、そんなところまでは気がつきませんでした。
私、自分が大変だった経験はあまり書きたくないので、書きませんが、これでも結構、いろんな体験をしているのですよ。
なので不幸の中にある人間がどんなに幸福になりたいと願っているか。
は、少しは解っているつもりです。
私が某M教が気になってならないのも、某M教の「人間の幸福」「人間の不幸」の捉え方が、とっても浅いのと
表看板には、
「疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。
休ませてあげよう。」
という看板を掲げながら、人間はなぜ疲れるのか、何故思い荷物を背負うことになるのか、
つまり、人間は何故不幸になるのか、についてロクに考えようともせずに
「幸福な者は某M教会へ、不幸な者は他所の宗教へ行けば良いのだ。」
「某M教会員じゃないから不幸になるのだ。」
と、何のためらいもなく言い切ってしまうところが気になってしまうのでしょうね。
> 政治と行政がもっと高齢者介護に力をいれ、介護人の充実を謀ってくれればねー。
ですから、ね。
生産年齢でもなく、経済活動もできなくなった人間(ぶっちゃけ国家運営上、足手まといで居ないほうが、国家にとっては好都合な国家構成員)に対して、国家や社会はどういう視線を持つべきなのか。
が、問題になって来るのですよ。
それは「国家と人間」という問題でもあり、「人間とはなんだ。」という問題でもある。
「すべては選択の結果、自己責任」という人間観なら、老後、質の良い環境と介護人を確保するのもしないのも自己責任ですからね。
私は、「認知症になっても家族に大切にしてもらえるかどうかは、それまでのそのひとの生き方による。」
という考え方も要注意な考え方だと思っています。
それは、国家が「国家にとって足手まといの者をどうするか。」という問題を家族の問題にすり替える危険性があるし、
また「全ては自己責任」という考え方にも抵触する考え方ですからね。
>桃青さんのような聖職者も葬式だけでなく、死にそうな人を救うのに努力して欲しいと思うこのごろ。
死にそうなひとを生還させるのは、医者の役目でしょう。
> 桃青さんも、神様でなく、弱い人間でしかもか弱き女性であるので、神仏におすがりするように、要望をだすのは間違いでしょうが、つい愚痴がでてしまいます。
なぜ愚痴なのか、よくわかりませんが。
私は、仏をこの上無く信頼しているし、その教えにすがってもいますよ。
牛の尻尾にすがるハエのように、法華経の教えにね。
南無妙法蓮華経。