記事No | : 2063 |
タイトル | : Re^3: 他人の心に、悪魔を見る |
投稿日 | : 2013/05/23(Thu) 10:49:45 |
投稿者 | : 桃青 |
> だからさ、 僕が仏を観たことを 確かと受け止めていただけるなら
> お母さんも仏であると 受け止めることもありなんじゃない?
ええと・・・。
私に「母は仏である。」と、観ることを強要しないでください。
私は、母を私と同じく十界互具の人間。
すなわち「あなたも、わたしも、皆、様々な相を見せてやがて仏となって行く人間」と見て、安心しているのです。
母もまた今世に「私、つゆ(仮名)」として生まれて様々な相を見せて、今世の修行を終えて行くのだ。
そして「私、桃青」もまた。
常不軽菩薩の「但行礼拝」も、「やがて仏になる」を礼拝したと聞いています。
この「やがて仏になる」ことの有り難さ、清々しさもまた、観たことのないかたには、わかっていただけないでしょう。
と、思いますけども。
南無妙法蓮華経。
>桃青さんの為に菩薩行を
> 積んでいるなんて、些細な事に拘泥しないで。
認知症の周辺症状に苦悩する家族に向かって
「あなたのためにわざわざ認知症になってくださった菩薩なのだから」と、法の導師が説かれるのですから、おっしゃるほど些細な事でもないでしょう。
> 仏だって、よだれを流すし、うんちも垂れ流すこともあるって。よだれを流して
> ションベンをちびって、ウンコを垂れ流す仏って お嫌いですか?
>
嫌うも何も、認知症になれば、誰でも否応なく大小便垂れ流すものなのですよ。
認知症になれば、ぽん州さんも垂れ流す。私も垂れ流す。
それが、認知症というものなのです。
そして、大人の垂れ流しの処理は、誰にとっても何らかの苦痛を伴うものなのです。
今朝も迎えに来たスタッフから「この間は、ありがとうございました。」と、何度も御礼をいわれましたよ。
それほど出がけの粗相の始末をスタッフが迎えに来たことを幸い、「じゃ、向こうへ着いたら替えてやってね。」と、お願いする家族が多い、ということでしょう。
わかりませんね。
何故、認知症の姿を仏である。菩薩である。と観なくてはいけないのですか?
認知症もまた、条件が揃えば(因と縁によって)あなたや私が見せる相。ではいけないのですか?
うらを見せ 表をみせて散る 紅葉かな
様々な相を見せて、私もあなたもいつか仏になって行くのです。
南無妙法蓮華経
>
> 「低級な信仰」なのかなあ。 ← 勝手に挿入された??
どこに?
私は挿入してません!!
なんという失礼なことを!!!
誤字、当て字があっても断りなく編集しないようにしているのに。
挿入なんてとんでもないいいがかりです。
ぽん州さんが、○○上人と個人名を書かれたのを「K上人」と書きなおしたのは、私のプライバシーに関わることだからです。
その旨御報告の書き込みもしましたでしょう?
そもそも私は、信仰を「低級な信仰」「高級な信仰」という捉え方をしたことがありません。
信仰は信仰。ただそれだけ。
発酵も腐敗も現象は同じ。それをこれは発酵、これは腐敗と分けるのは、人間の都合からでしょう。
そのように信仰も同じだと思っています。