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かさぶた(2004GW・北大東島)その2

西港近くの廃墟

予報どおり、北大東島で迎えた朝は雨だった。
イッキにドワツと降ったり、そしてしばらく止んだり、なかなか南国チックな雨なのだ。
徒歩以外の移動手段を持ち合わせない我が家にとっては、なかなかツラいシュチュエーションだ。
しかし、夕方の帰りの飛行機まで宿でダラダラしていては勿体無い。
キッチリと朝飯を食って気合を入れ、雨に挑もうではないか。

広いレストランは、予想通りに我が家3人と宮古島くんだけの席しか埋まらなかった。
やはり気勢が挙がらずに無言でボソボソと食ってる宮古島くんを尻目に、ウエイトレスのオバチャンが我が家のテーブルににじり寄って来ると、小声で
「お食事が済んだら、フロントに寄ってください」
などと呟く。
何だろうかとフロントに立ち寄ってみると、ソコには意外な展開が待っていた。
なんと、宿の従業員のクルマを貸してくれると言うのだ。
しかもタダで。

ソレは、なんとも助かる。
そして、南大東島の色黒オッチャンの言った通りになってしまった。
しかし、なぜこのような恩恵に与れるのだろうか。
宮古島くんは、雨の止み間を狙ってカッパも着ずにレンタバイクに乗って出かけてしまったので、我が家だけがクルマを貸してもらえたラシイのだ。
やはり、オコチャマ連れと言う事で同情を誘ったのか、
あるいは、色黒オッチャンが何かしらの手を回してくれたのか、
まさか宿の女性支配人が、このオトォチャンに惚れてしまったのか。
まあ、一番最初の推測が妥当だろう。
二番目の推測にあやかれるほど、色黒オッチャンが世話を焼いてくれる義理は無いし、
三番目の推測に至っては、全く有り得ない。
とにかく、ココはアリガタく厚意に感謝するのがイチバンに違いない。

西港の岸壁は日本一の高さ

クルマを貸してくれた従業員の気が変わらないうちに・・・・・
なんて事は無いのだろうけれど、とりいそぎ西港に向かう。
北大東島の3つの港のうちのメインとも言うべき港で、島一番の集落も、この港の近くだ。
もっともメイン港と言っても防波堤も何も無いので、その日の波や風向きの状況によって、船の発着場所としての地位は他の2港のどちらかに奪われる事になる。

南・北大東島の港は南大東漁港を除いて防波堤を持っていないので、いずれの港も岸壁が異常に高く、人も荷物もお馴染みのクレーン宙吊りでの乗下船となるのだけれど・・・・・
この西港の岸壁が一番高くて12メートルもあり、ちなみにコレは日本一なのだそうだ。
しかし、真っ先に西港にやって来た目的は、その岸壁の見物だけではない。
ココには、北大東島一番のチェックポイントが存在するのだ。

それまで無人島だった南大東島が、サトウキビの生産から砂糖の精製までの一貫した基地として開拓されたのが明治時代の中頃で、それに遅れること数年後、この北大東島も開拓が始められたのだそうだ。
しかし、こちら北大東島では砂糖よりも燐鉱石の採掘が大々的に行われ、西港の目の前にはレンガ造りの巨大な貯蔵庫も建設された。
この燐鉱石採掘によって島は大いに活気に満ち、現在の4倍もの人口だった時代を経て・・・・
戦後まもなく燐鉱石の事業が終焉を迎え、そのまま貯蔵庫は放置されてしまったのだ。

手入れをされない建物の末路は哀れなモノで・・・・
しかもこの貯蔵庫の場合は、12メートルもの高さの岸壁を乗り越えてくる台風の荒波の直撃を受け、さすがのレンガ造りもズタボロになってしまったのだ。
その結果、まるでヨーロッパの城跡のようなたたずまいとなり、その崩壊は今でも進行中なのだそうだ。

昔はココから船を引き上げたらしい

さすがにクルマは早く、アッと言う間に西港に到着し、クルマを降りると・・・・
来た来た来たぁ!!
スコールのような雨が、イッキに襲いかかってきたのだ。
この状況で廃墟見物はツラすぎる。
貯蔵庫のガレキの中を、宮古島くんが傘もささずにウロついているのがチラリと見えたけれど、我が家はひとまずココを引き上げる事にする。
時間はタップリあるし、なにぶん小さな島なので、雨の止み間を狙って再び訪れれば良いのだ。

そこで目指したのは、北港近くにあるハズの北泉洞という鍾乳洞。
ソコならば雨でも問題が無さそうだし、南大東島の星野洞が予想外のゴリッパさでカンゲキだったので、コチラの島の鍾乳洞にだって期待しちゃったのだ。
「あるハズ」というのは頼りないけれど、ガイドブックの地図の北大東島は直径が3センチしか無く、「そこいらへん」程度しか判らない。
まあ、小さな島なんで「そこいらへん」さえ判れば大丈夫だろうと、ソレらしい場所を探しても・・・・・
北泉洞そのものはモチロン、それを示す案内板のようなモノすら見当たらないではないか。

サトウキビ畑の中を徘徊するうちに、畑への給水ポンプを操作しているジィサマを発見した。
コレは、人に聞いてみるのがイチバンだ。
「すいませぇん。北泉洞ってのは、どこでしょうか?」
顔だけをコチラに向けたカッパ姿のジィサマは、作業の手を止める事無く
「ソッチ!」
と、どちらの方向も指し示さずに、メンドクサそうに叫んだ。
そして、
「行っても、カギが閉まってるから入れないよう」
と続けて叫ぶと、もう我々に顔を向ける事は無かった。

「どうする?他の人を見つけて聞いてみる?」
「他の人って、どこにも居ないじゃない。やっと見つかったオバァサンだったのに」
「えっ?オバァサン? 今のはジィサンじゃん」
「違うわよ。オバァサンでしょ?」
こうして、鍾乳洞の位置もナゾの老人の性別も判らないまま、北泉洞の探検は終わった。

後に知った情報では、北泉洞は見学ルートの未整備を理由に、一般公開されていないとの事。
北大東村は『ふるさと創生資金』を、何に使ったのだろうか。

これも港? その名も「上陸」

北泉洞を探してウロついていた頃から、雨は止んでいた。
そこで再び西港の貯蔵庫痕に戻ると、またしてもドシャブリとなってしまった。
またまた廃墟見物を後回しにして、今度は『上陸』と呼ばれるポイントを目指す。
ココはその名のとおり、北大東島の開拓民が一番最初に上陸した場所なのだそうだ。

その『上陸』は、周囲が全て断崖絶壁で囲まれた島の南西側にある、極々小さな天然の入江なのだ。
絶壁の上はキレイに整備された公園となっていて、そこからイッキに海面まで落ち込むように、岩肌を削った急な坂道が続いていた。
こんな磯釣りスポットのような険しい場所でさえ『上陸港』と呼ばれる港だったのだから、さぞや資材などの積み降ろしは過酷だったろう。
それに比べたら現在のクレーン宙吊り式なんて、夢のように近代的な港なのかも知れない。

いつしか雨は止み、ドンヨリとした雲と海との境目に漂う南大東島の全景が見えた。
北大東島に発上陸し、この崖を這い上がってきた開拓民の目には、その島影はどのように映ったのだろう。
せっかく手掛けてきた南大東島の開拓から未開の島に回され、未練に満ちた視線で眺めたのだろうか。
或いは燐鉱石採掘という新たなシゴトに希望を抱き、もう過去の島に視線を送る事などなかったのだろうか。
その答えは誰にも判らないけれど・・・・・
ハンパなフロンティア精神では、南北いずれの島でも生きていく事は容易では無いだろう。
少なくとも、クルマが借りれないだの雨が過酷だのと一喜一憂している我々に比べたら、比較にならないほどにタクマシい人々なのだ。

崖の上は公園です


バベルの塔が砂の嵐やコンピューターに守られているみたいに、この島の廃墟は雨に守られているのだろうか。
西港に戻ると、またまたまたドシャブリとなってしまった。
ココだけが降っているのかと疑いたくなるような状態なのだけれど、いずれにしてもソレに逆らう手段は無い。
ささやかな対抗策として屋根のある民族資料館に向かうと、ソコで再び宮古島くんと遭遇した。
レンタバイクで周っている割にはあまり濡れていない姿が、なんだかちょっぴりナゾだった。

この宮古島くんの他に、レンタチャリで周っているオニィチャンにも何度か遭遇した。
もう一つの宿の客らしいこのオニィチャンは、カッパも着ていないズブヌレ状態で、とにかくゴクローな事だ。
どうやらこの天候の中で島巡りをしているのは、我が家、宮古島くん、そしてこのオニィチャンの3組だけらしい。
クルマなら、オシッコをガマンしていても2〜3周出来てしまうような小さな島なので、とにかくアチコチで出会ってしまうのだ。
すると、あのポンタはドコで何をして過ごしているのだろうか。
おそらく宿で、面白くも無いノーガキをオヤジ口調でタレているのだろう。
そんなモノを聞かされる位ならば、ズブヌレになってもチャリで走り回っているほうがマシなのは間違い無い。

いよいよ廃墟へ


ヒルメシを食った後、もう何度目だかも忘れた西港に到着した。
今度こそ廃墟見物なのだ。
幸いにも雨は殆ど止んでいる状態ながら、空は相変わらずドンヨリとした低い雲に覆われ、いつスコールが再訪してきてもおかしくない空模様だった。
しかし、そんな薄暗さが、かえってココには似合っている。

ギリシャの遺跡ならば、抜けるような青空と紺碧の地中海に、その純白の容姿が映えまくる事だろう。
それは、イニシエの文化を支えてきた白骨のようで、なんだか潔さや神々しさを感じる。
ソレに対し、この貯蔵庫の残骸は、ドス黒いガレキのカタマリなのだ。
採掘で賑わっていた頃の貯蔵庫は、この島の生命を支える血液とでも言うべき燐鉱石が出入りする、文字通りの大動脈だったのだろうに。
今やその役目を終え、ただただイビツにドス黒くヘバりつくだけの醜態は、まるでカサブタのようだ。
そして時の経過と共に少しずつ剥がれ落ち、やがては消え去ってしまう運命なのだ。

なんとなくブキミな気配を察知したのか、それでなくても臆病者の我がオコチャマは
「こわいこわい」
などと叫びながら、足を止めてしまった。
そんなビビリをいちいち聞いちゃいられないけれど、ムリヤリ引きずって行く訳にはいかない。
燐鉱石を運んだトロッコの出入り口だと思われる4つの穴を、
「ほぉら、オマエの好きなトンネルだよぉ」
なんて感じで指し示してみると、オコチャマなりに興味を抱いたようだ。
「アレがオカァチャンのトンネル。隣のチンチクリンなのがオマエのトンネル。その隣がオトォチャンのトンネルで、その次がオジィチャンのトンネル。最初に、オカァチャンのトンネルに入ってみようか?」
「うん。ママのトンネル、いく」
しめしめ。

ママのトンネル 突入!

その『ママのトンネル』は、逆Uの字型のまさにトンネルっぽい形で、貯蔵庫痕を南北に貫いていた。
所々の天井が落ちて地面にガレキの山が出来ているけれど、通り抜けられない事は無い。
オコチャマが
「こわくないもん」
などと率先して歩くので、そのまま通り抜けてみる。
ボロボロのコンクリや朽ち果てた鉄骨が宙ぶらりんになっている個所もあり、崩れ落ちてこないかヒヤヒヤものだ。
パパのトンネル 通行不能・・・

次の『オコチャマのトンネル』は、トンネルと言うよりも小さな部屋状のイキドマリで、さすがにオコチャマは怖がって泣き叫ぶ。
「判った判った。じゃあココは止めようね」
「うん。パパのトンネル、いく」
おおっ、たくましいぢゃないか。
しかし、『パパのトンネル』は、僅か数メートル先で完全に天井が崩落し、それ以上は進む事が出来ない。
「パパのトンネル、こわれちゃったねぇ」
う〜む。オコチャマなりの解釈だとそうなるのか。
一番ハジッコの『オジィチャンのトンネル』も同様に崩壊していて、しかも鬱蒼とした木々に覆われていた。
「オジィチャンのトンネル、こわれちゃった」
「そうだねぇ。オジィチャンのトンネルは、ジャングルになっちゃったねぇ」
「うん。ジャングルになっちゃった」

ジィチャンのトンネルはジャングル状態

この貯蔵庫痕のすぐ近くに、『日本国標』というモノがあり、それも見に行く。
この国標と言うのは、いわゆる
「ココは日本の領土ですねん」
と外国相手に主張している碑であり、そのようなモノは日本中でもココにしか存在しないとの事だ。
最初に南北大東島を発見したのはイギリスで、それを後出しジャンケンながらも日本の領土だとアピールする必要性から、わざわざそのようなモノを建てたのだろうか。

しかし、実物を見てオドロいた。
コギレイな公園の中に角材風の国標が建てられているのだけれど、妙に新しいのだ。
さすがに、最初に建てられた明治時代のモノがそのまま残っているとは思わないけれど、それにしても新しすぎる。
その国標に刻まれた文字を眺めると・・・・
おおっ、平成16年再々建と書かれている!
我が家のオコチャマよりも若いぢゃないか!!
ううむ。
いまさら、どこぞの国が
「この島が日本領である根拠を示しやがれ。オリャ!オリャ!」
なんてイイガカリをつけてくる事など有り得ないだろう。
だとすれば形ばかりの国標なんかを再現せずに、たとえ朽ち果てた姿を晒そうとも、元々の国標を残しておいたほうが良かったような気がする。
いずれ貯蔵庫痕という名前のカザブタが剥がれ落ちて消滅してしまった後、世代を重ねながらコギレイに立ち続ける国標のレプリカに、果して何の意味があるのだろうか。

これが国標    なんと平成16年の設置です


北大東島巡りも大詰めとなり、最後に立ち寄ったのは島の最東端。
コチラには『沖縄県最東端』のモニュメントが建っていた。
レプリカ国標よりは存在意義が有るのだろうけれど、なんだか照れちゃうほどにゴリッパすぎる。
しかし、わざわざそんなモノを見にココに来た訳ではない。
そのモニュメントが建つ崖の下には、南大東島の塩屋や海軍棒にあったのと同じような、磯辺の岩礁を繰り抜いて作られた海水プールがあり、ソレをひと眺めしに来たのだ。

その名も勇ましく『沖縄海』と呼ばれる人工プールは、南大東島の2つのプールよりもリッパに見えた。
いつしかスコールは鳴りを潜めたものの、それでもときおり雨が落ちてくるアイニクな天気だというのに、この沖縄海ではオトナとコドモが入り混じって数人が泳いでいた。
そしてその御一行様と思われる10数人の集団が、駐車場脇でバーベキューを楽しんでいる。
『上陸』の公園のゴミ箱はビールの空き缶で満杯になっていて、いかにも宴会後のフンイキだったし、南大東島でも塩屋プールの脇でバーベキューをやっていたのを思い出す。
聞けば大東島では、ゴールデンウイークにシーサイド宴会を行う習慣があるそうで、彼らは観光客ではなく、島民、島に里帰りしてきている元島民、そしてその親族縁者なのだ。

沖縄の宴会と言えば、三線(さんしん)の音色に合わせて琉球民謡を歌い踊るニギニギしいイメージが浮かぶ。
しかし沖縄最東端での宴会は、物静かに、淡々と杯が行き交うだけなのが意外だった。
まあ、宴のホンバンは暗くなってからなのかも知れないけれど・・・・
派手に着飾る事無く、地味に、そして生活に密着しまくっている南・北大東島だからこその宴会スタイルにも思えてきた。

沖縄海の海水プール

これで、大東島の旅は終わった。
飛行機の到着が遅れているとのアナウンスを聞き、オコチャマを連れて北大東空港ターミナルビルの屋上にある展望デッキに向かう事にする。
エレベーターで最上階まで登ってみると、その階に喫茶店風の軽食コーナーがあり、ソコから目の前の展望デッキに出るドアが見つかった。
先客の父子が揃ってデッキの手すりにヘバりつき、まだ来ぬ飛行機の姿を追って空を眺めているのがガラス越しに見える。

さっそく我々もデッキに出るドアのノブに手を掛けたのだけれど、カギが掛かっていてドアが開かないのだ。
「おかしいなぁ、あかないねぇ」
なにげなくオコチャマに話し掛けたその時、背後から声が聞こえた。
「ソコはねぇ、カギがかかっているんだよ」
うっ!この声は!
振り返ると、やっぱりポンタだった。

カギが掛かっているのは今確認したばかりで、いちいちエラそうに言われなくても判る。
しかし、現にデッキに出ている父子が居る訳だし、このままでは彼らも建物の中に入れないではないか。
再びドアのカギをガチャガチャいじくってみると、もう一度ポンタが口を挟んだ。
「ソコはねぇ、カギがかかっていて開かないんだよ」
これまでは一方的に話し掛けてくるポンタに対して、マトモに相手にしないながらもソレナリに相槌くらいは返してやっていた。
しかしこの時ばかりは妙にイラつき、そんなポンタの存在なんか無視・・・・・
すれば十分だったのだけれど、ついつい思いっ切りメンチを切ってやったのだ。
そして、なんだかオドロいたような表情を浮かべたポンタに背を向けてその場を離れた。

どうやら展望デッキへ行くのは、いったん建物を出て外階段から登るのが正解で、実際にそのルートからデッキに出る事が出来た。
なんとなく窓越しの軽食コーナーに目をやると、すでにポンタの姿は無かった。
その後のポンタは、ロビーで顔を合わせても怯えるように目をそらし、そして那覇空港では小走りにどこかへ消えてしまった。
この島には一泊しただけで、しかもどこにも出歩いた形跡の無いポンタ。
ヤツの記憶には、北大東島はどのような印象を残したのだろうか。
「いやあ、何も無くてツマラナい島だったねぇ」
なんて事を、ヤツの口から言って欲しくない。
もっとも、ヤツが何を言おうとも、誰もマトモには聞いちゃいないだろうけれど。



那覇に着いてソッコーでホテルに荷物を放り込み、国際通りの居酒屋になだれ込む。
眩いばかりの店内は大いに活気に満ち、そんな喧騒の中で沖縄郷土料理を突っつきまくると・・・・
足掛け5日間を過ごし、そして2時間前まで居たハズの大東島の光景がウソの様に思えてくる。
う〜む。
しかし、どちらが良いとか良くないとか、それを比較する訳ではない。
どちらもそれぞれのキモチよさなのだ。
那覇で物量に満ちた多彩な味覚を思いっ切り味わって、そして再び別の離島を目指すのも楽しそうだ。
さて、それじゃぁ次はどの島に行こうかねぇ。
羽田経由、そして日々の暮らし経由にはなるけれど。

小雨混じりの中をホテルに戻ってテレビをつけると、アナウンサーが沖縄地方の梅雨入りを告げた。
それはまるで
「だから、もう帰れ」
とでも言っているように聞こえた。


沖縄県の最東端の碑
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