AZの金銭征服
 自分で付けて自分で文句を言っていれば、世話がない。しかし、征服という言葉はいけないな。
 では、なぜ私が『AZの金銭征服』という題名にしたか、そのわけから説明してゆこう。一口に言って、この言葉(征服)は反動から生まれたのである。世の大半の人が、みずからハッキリ意識すらせず、オカネの奴隷になっている現状では、相当ドギツイ言葉でないと、眠っている人を呼びおこすことができないのである。圧政の下にあえいでいる人民をふるい立たすには、やはり「暴君打倒」とか「革命」とかいう強い言葉が必要ではないか。
 オカネを征服できるのかしら――こういう淡い望みがほんのチョビットでも、人々の心のなかに浮かべば、これはもう正しい方向への第一歩である。人間が主人公であるという自覚がすべてだからである。
 しかし征服という言葉はいけない。広島に原爆が落ちたころまでは、こういう考えかたもまだ世間に通用した。しかし、どこかの国が主張した月の領有権までがナンセンスとして問題にされなくなってきている二十世紀後半には、もろもろの征服慾は影をひそめなければいけない。
 もともと、征服とは征服するものとされるものとの対立関係を想定する。しかし、人間すこしでも目が開いてくると、対立においては何ごとも成就できないことが分ってくる。対立していてはいけないから、手をにぎり合おう、仲よくしようというのではないのだ。目をひらけば、対立が無い世界がそこにあるのである。無対立の世界に自分が生きているのである。―おダイモクではなく!
 オカネで困っている人々よ、あなたがたはオカネの欠乏で困っているのではないのです。あなたの人間性の欠乏が物質面に投影して貧血を起こしているのである。
 人間性などというアイマイな言葉を使うことをゆるしたまえ。私はヒューマニズムを売りに来たのではない。物のわかった苦労人になれとお説教を垂れに来たのでもない。私はただ、人間というものが、世人の夢にも思わないほど素晴らしい存在であることを、説明したいのだ。
 征服と対立のない世界、それは本当に素晴らしいものである。万物にいのちが通い合う。有無相通じて、富める者と貧しい者のあいだに争闘がない。
 あなたは金持の多くがいかに苦しい精神生活をしているか、想像することができるか。これはおそらく、あなた自身が金持にならないかぎり、本当には実感できないことであろう。人は貧乏であるあいだは、金持をうらやみ、いつかはあのような立場になりたいと思う。そして毎日営営と努力する。その努力が実を結んで、何十年かのちに自分が金持になったとき、富とはかくも味気なく残酷なものであるか!と嘆くようになろう。
 このことは、昔から幾多の聖人賢者が説いているが、人間の愚かさは何千年たってもなくならないように見える。
 いつか、私は通訳として東京の某ホテルに止宿している英国の木材輸入商に会いに行ったことがある。引き切らぬ訪問客、電話、電話、筆記、計算・・・。商売の世界は当然そのようなものであろう。しかし、私は傷ましい人生の敗残者の姿を見た。かれはたしかにどこかで大きく計算を狂わせていたにちがいない。かれにはテキパキと事務処理を楽しんでいるというふうが全くなく、たえず何かに追われているような感じだった。それは恐怖と呼んでもよいような姿だった。
 私はゆったりそて、必要以外には口を利かず、静かにその実業家を観察していた。飛行機で世界各地をとび廻り、しかも諸国の風物を味わういとまもなく、ホテルからホテルへと、不眠に悩まされつつ巨万の金銭を追っている男。仕事が終わり、千円札を数枚私につかませてから、サンキューとこちらの手を握ったときの、その手の冷たさは今でも覚えている。それは鉱物質の感触であった。
 「君は幸福だね・・・・・」
 なぜともなく、ポツンと私にほうりなげた彼の言葉は、いったい彼のなかのどの「部分」から発したのであろうか。彼のなかにも「人間」は生きていた。私は三十七、八才の異国人の目を見つめ、そのなかに哀願に近い苦痛の表情を見てとった。別れてから東京駅に徒歩でゆく道すがら、何とはなしに私は悲しかった。袖ふり合うも他生の縁―しかしこの男とは、これで一生のあいだ再会の機はこないであろう。話す口はあっても、聞く耳はなく・・・・・。

 征服はやめよう。人おのおの、生まれて来た時から与えられた福分はある。せっかくの福をドブに叩き込まぬよう、平和に生きようではないか。
3.征服という言葉がそもそもいけない