AZの金銭征服
おめでとう」と言われた。但しこれは多分に皮肉と私に対する忠告である。おかげでこのフィルム売買だけでも年間数億円からの契約高をあげ、社員の数もこの二年間で二名から百三十名とフクレ上がり、八重洲口のビルの一室から築地川畔に新築された築地会館の二階半分を占領するほどに会社も発展した。
 一方、業務の方もこれら代理店業のほかに、日本映画の海外放送局提供、映画監督の吉村公三郎氏を映画部長に迎えて、テレビ映画の製作をはじめ、芸能部を作ってテレビ、ラジオのタレントの養成と提供をやる他、カムカム英語の平川唯一氏を翻訳部長にすえて、フィルム番組の外国版及び日本版製作を行い、また現在脚本家・小説家を糾合して企画制作部をスタートさせた。ウィーン少年合唱団招聘の成功をきっかけとして事業部を新設し、歌舞伎の外国巡業や外国ショウの招聘興行を計画中である。
 ことしの四月、ウィーン少年合唱団の北海道訪問に行を共にした私は、上京後はじめて故郷余市に帰ったが、この時の歓迎ぶりを眺めて、流石に感慨無量だった。
 町長はじめ主だった町民代表が詰めかけて、恰もガイセン将軍を迎える如き盛況さである。私は、三年前、同じこの余市駅頭で寒風に吹かれながら孤影悄然と発った自分を思い起こしていた。
 しかし、テレビ界は、いまや群雄割拠する戦国時代だ。右を見ても、左を見ても、マンモス資本が入り乱れて闘争している。そのなかで若干三十三歳の私が僅か二年の経歴でテレビ界に重要な位置を占めることになった。当然私に対する風あたりは強く、ありとあらゆる抵抗、妨害が行なわれているのだ。
 一例をあげれば、私がウィーン少年合唱団を連れて北海道に行ったのは参議院選挙にうって出る工作だ、というデマのゲラ刷りが盛んに撒かれ、純真な外国少年たちを自分の出世栄達の道具にする悪徳漢を葬り去れ、などと中傷されている。
 だが、私はこんな中傷や悪宣伝など、いささかの痛痒も感じない。むしろ、こうした卑劣な抵抗にぶつかるたびに、猛然とファイトが燃えてくる。私は何度もいうように道産子なのだ。そして道産子の体内にはフロンティアの「闘う」という強い気魄が脈うっているのだ。
 裸のままでぶつかる――これが私の処世法でもあり、事業のモットーでもある。闘争や抵抗がいくら激しくなろうと、私はただわが道を往くのみだ。
AZ時代;リスト
8.ただ図々しくあれ 
 ここまで読んできたあなたは、この本の受けとりかたについて、いささか困惑した気持に襲われながらも、何となく各章の魅力に引きずられてページをくっているのではあるまいか。
 私という著者は、なにか宗教くさく、信仰みたいな修養じみたことをお説教したいのか、それとも思いきって破目をはずして、世間という荒馬にヒラリと飛び乗り、ジャジャ馬ならしをせよと勧めているのか、どっちなのか――そういう疑問である。
  私は悟り澄ませと言っているのではない。それはヴァイオリンやギターをひくときに、最初に調子笛で一本一本の音を合わせるようなものである。この操作は必要である。楽器の調律が正しくなされたのち初めて、奔放無類な即興曲もかなでられるからである。調律ばかりに三時間も四時間もかける馬鹿な音楽家は、まちがいなしのノイローゼ患者である。
 私はまず行動せよと言っているのである。しかし、おおむねの人の場合、行動への情熱とエネルギーは最初から衰弱している。 なぜか? 機械が狂っているからである。
 だいたい、ためらう、チュウチョするというのが、機械の狂っている証拠ではないか。地球が太陽のまわりを廻転するという運動ひとつを取り上げてみても、その動きには一分一厘の「ためらい」がない。堂々と、なめらかに、着実に、整然と、しかも大胆に、地球は動いている。
 人間もかくあるべきである。人間は「良心」というケチなものを持ち合わせている。物心のついたときから、親から、学校教師から、耳にタコが出来るほど「良心」の尊いことを教えられてきた。それで、何がなんだか分らぬが、人間には良心というものがあるらしいと言うことになってしまって、何をするにもオドオドと「良心」の声をきき、脚をガタガタ震わせながら、人生行路を歩む習慣がついてしまった。
 「良心」って何だ? その九十九パーセントが、世間に対する思惑、他人に対する気兼ねじゃないか!
 そしてそれは結局、ケチな自己保身の保全防衛の変形以外のなにものでもないではないか!
 人間はもっと大らかに生きていい。
 精いっぱい雄たけびをしてもいい。
 怒鳴るときは怒鳴れ。泣くときは泣け。スサノオノミコトのように、海の水もかれ果て、野山の草木もしぼみきるほどに号泣したらいい。
 怒ってはなりません。ナラヌカンニン、スルガカンニン。怒るまえに二十数えろ。ヘン馬鹿も休み休み言うがいい。いったい君は、今までに、全生命の限りをかけて怒ったことが一度でもあったか!
 孔子さまがおっしゃった。オシャカさまも戒めた。キリストさまも禁じられた。だから平身低頭する。手も足も出ぬカメの子よろしくのかっこうだ。情けないザマではないか。
 そんな生きッぷりで、金銭支配を企らもうなんて、虫がよすぎるではないか! あまりにも虫がいい!
 人間という存在は、たしかに最高の被造物なのだ。人間の歩いたあとに「道」ができるので、道徳という道、法則という道、掟という道、すべてが「人間」のあとからついてくる。カッコづきの「人間」だ。病気でヒョロヒョロした似而非人間ではない。真の人間だ。オギャアと生まれたままの「人間」だ。
 ペコペコと神さまにおじぎをして、どうぞ一文とつぶやいたって、ビタ一文下さる神さまではないはずだ。貧しい者はますます貧しくなる人の世だ、とイエスも警告したではないか。
 だいたい君はウソつきだ。偽善者で、猫っかぶりで、要領よく、卑劣で、自分の身ばかりかわいがっている。自分を大切にするのは立派だ。しかし、自慰的に自分をかわいがるのは不潔の極みだと思わないか。主張するときは、堂々と、屋根の上にのぼって叫びたまえ。
 あくまで図々しく。図々しさも、陰険になったり、押しつけがましくなっては、下の下だ。さわやかに、有無を言わさず、グイグイ出るか、抜く手もみせぬ居合抜きの手練でバッサリやるのだ。
 図々しさ――これは第一の徳だ。この関門を通過しないでは、次の章を読めるはずがない。よんでも判るはずがない。