AZの金銭征服
AZ時代;リスト
10.自分の一番やりたいこと
 今朝、旅行用のカバンを渋谷文化会館横の井上カバン店(メーカーだから安くて良いものがある)で買い整えてから、家に帰り、旅支度をしていると、突然の来訪者があった。
 古い通勤カバンを一杯にふくらませ、くたびれた背広を着、靴はすこし臭いという、御当人には大変失礼な表現だが、いわゆるルンペンのようなみなりだった。それでも、私はそんなことには頓着しないほうなので、ドウゾドウゾと、新畳をしいた二階の自室に請じ入れた。
 名乗ってニ川新(ふたがわ・しん)、職業は画家、年のころは六十をこしたか越さないかというところ。ふた言みこと話し合っているうちに、この人が特異な個性をもっていることがすぐ分った。
 最初にびっくりしたのは、とたんに、ピョロピョロ、ピーピピと、二川氏の頭のうしろのあたりに小鳥の鳴き声がした。鳥かごでも忍ばせているのかなと、思わず首を伸ばしたほどだ。鳥かごでも忍ばせているのかなと、思わず首を伸ばしたほどだ。しかし、それは擬音であった。
 小鳥の真似といったって、それはとうてい人間のノドから出るはずもない、不思議なほど真に迫った音色であった。二川氏は口をアングリあけて、上あごの裏側を見せてくれた。何やらへばりついている。それは、説明によると、氏の発明した特殊の器具(?)で、魚の皮を細工した一種の笛であった。
 「これをね、冒険学校の皆さんに教えて上げようと思っていると思っているのですよ」
 「ハハアン」
 私は分ったような、分らないような声で、間の抜けた声を出した。
 「私はヒッチハイクの名人で、このおかげでどんな運転手にも喜ばれます・・・・・」
 そう言って、またピピッと口のなかで鳥を啼かした。なるほど、この音をきけば、どんなに疑心の強い人でも警戒をゆるめるだろうし、どんな渋面でもほころびることであったろう。
 ニ川氏は、一文なしでも、道に立っていて、どの自動車でもつかまえて、どこにでも好きなところに旅行できる稀有の才能の持主であった。気がむけば、大磯や横浜にある戦争孤児の収容所(サンダース・ホームのような)に慰問に出かける。ウサン臭いのが来たと所長さんたちが思ったって、子供たちは大喜びで小鳥老人のまわりに群がってくるのだから、どう仕様もない。
 人徳というのは素晴らしい。私はもう、昔からの友人であるように、ニ川さんと四方山の話を始めた。・・・と言っても、いつものように私は聴き役に廻るのだが。
 ニ川新さんは、戦前は東京のデパートで個展などを催したことのある似顔絵描きであった。徳川夢声が初めて本を出したときその表紙に夢声の似顔絵を描いたのも、この人だったのである。そのときは、出版記念会にも招かれたという話である。その後ずっと、夢声老とつき合いを続けていると、ニ川さんは語った。
 文壇画壇の名士の似顔絵を何枚も描いてそれを写真にとって保存しているのを見せてくれた。私は自分もぜひこの人に描いてもらいたいと思い、ちょうどこのAZシリーズのどれかの口絵にいいな、と考えたのである。
 出来栄えは、私にはとても気に入った。写真とちがって、私の内面がグッと外にせり出したような感じである。私はいつも、無意識的に、自分を中に包みこんで、表面は春風の吹くような雰囲気でおおうのが癖のようなのだが、ニ川画伯の手にかかると、スッ込んでいるものが引っぱり出されたようであった。精悍な感じが目のあたりに出ている。顎の張り方も、恥ずかしいほど闘士的に見える。
 私は自分の顔が好きである。特に、このごろはいい顔をしている。横から見るとペシャンコで唇が尖っていて、弟珠樹のハンサムに比べると三割ぐらいの点数だが、森繁かフランキーぐらには見える顔である。
 うぬぼれもいい加減にせい、と言われそうだが、8章に書いた“図太主義”に免じて赦していただきたいと思う。
 常識は己惚に対して評価が厳しいようであるが、他方、卑下や自己憐憫に対しては点が甘すぎるようである。そうは思いませんか?
 あの人は謙遜でよい――そんなことを世間では言うが、その人の内部に立ち入ってみれば、自分をいじめたり罵ったり、あまり愉快な光景ではない。
 自分をいじめたり罵るのは、他人を虐待したり苦しめるのと、全く同じ罪である。外に出さずにじっと抑えているから偉いのだと、馬鹿な褒めかたをするが、何が偉いものか!
 自分と仲直りする、自分が好きになる――このほうが、ずっとずっと偉大なことなのである。心が平和になり、天から創ってもらった「自分」という存在のカケガイのない値打ちをしみじみ悟ったとき、おのずと感謝の念が湧き、他の人々や生き物を見る目もなごんで来る。

 ニ川新という人も、たしかにこの「自分が好きなタイプ」に属しているようであった。服はボロボロでも、人生をエンジョイし、毎日新しい発見をし、画をかき、詩を作って、足のむくままに旅をしている。かれは自由人である。学者や批評家が説く「自由」とは別の地点で、毎日「自由」を生き、体験している人なのである。
 ニ川さんは香港に二回、台湾に四回旅をしたと言っていた。タイワン・オオゴキブリという一種の油虫の駆除法の発見談は実に面白いので、その話をここに紹介しよう。
 台湾にはそのころ伝染病がショウケツを極めていた。病気の媒介になるのがそのオオゴキブリだということも、研究によって判っていたのであるが、夜になって活動を開始するこの害虫の大群が、ひるまどういう巣に隠れているか、だれにも分らなかった。
 ニ川さんの頭は、きっと普通の人よりも、ゆとりがあったのであろう。自由人は不自由人よりも、心の中に沢山スペースを持っているものである。このスペース(真空状態)にアイディアやインスピレーションが飛び込んでくる。
 舞台は便所である。ふつうの人なら、便所でウンウン唸りながら、その日の商売のことを考えたり、憎らしい敵にどうやって仕返しをしてやろうかと策を練ったりしていることであろう。なにも考えることのない人は呑気なものである。ニ川さんは用をすましてから、何気なく紙に火をつけて糞壺に落としてみた。メラメラと燃えて落ちてゆく。その束のまの光のなかに、数匹の大ゴキブリが墜落してゆくのが見えたのである。
 ハテナ? ここが大発見の瞬間であった。さては、この便所の裏側の、上からは見えない壁に油虫め、巣くっているんだな。よし!
 決心したニ川さんは、今度は大きな新聞紙に火をつけてパッと下に落とした。ボ、ボオッと燃えて、その瞬間・・・
 驚くなかれ、無慮数百匹数千匹の黒い虫が、ドッと火にのまれて墜落してゆくではないか。焔を下から受けて一たまりもなかったのである。
 なるほど、なるほど、こんなところから這い出してくる油虫なら、恐ろしい病気の媒介をするのは当然だ。よしよしと、ニ川さんは今度は隣りの家に行って便所を借り、第二の実験をした。累々とした油虫が、一瞬に焼死した。大成功であった。
 このアイディアを台湾中に知らせて、伝染病を根絶しようと思ったニ川さんは、総督府直属の衛生関係の役所に出かけたのである。これこれしかじか・・・・・。ところが、なにを! というのであった。
 「そんなたわけた案を持ちこむやつがあるか!」
 偉い先生はどなった。「大発見者」はシオシオと帰る。
 しかし、この話はメデタシメデタシで終わるのである。どなった先生も、その後自分の非を認め、実験ののちこの方法を採用することにし、民衆を指導する際、油虫メラメラ駆除法を教えてやった、ということだからである。