AZの金銭征服
AZ時代;リスト
 ニ川さんというのは実に面白い人である。AZ型で、何が専門か、話しているとつい判らなくなる。悪く言えば風来坊、よく言えば自由人。とにかく、自分の一番やりたいことをやって来た人である。そうして夢声老のように一代の名声を世に博することもなく、また御木本真珠王のように巨大の富を積み上げた人でもないが、結果はともかく、この人のやっていることは、世の中を楽しく善くすることばかりのようだ。
 私の似顔絵を描いているのを見て、私の父も気が動いてか、モデルになるのを承知した。なかなか、これも好い出来である。二枚描き上がってから、お礼はどのくらいしましょうか、と私は尋ねた。
 「いいのです。いらないんですよ」
 その声には真実があった。
 「いや、そりゃ悪い」
 そう言った誰かさんの声には、不真実の響きがあった。
 私はポケットから千円札一枚を出した。ぜひ受け取ってくださいと頼んだのである。固辞したのち、ニ川画伯は私の意とする所をくんで、それを受け取ってくれた。私もニ川さんもともに満足した。幸福なひるどきであった。小春日和で、硝子を通してくる陽光は、その部屋を温室のようにしていたのである。
 金もうけの話はいやになりましたね。

 (註――ニ川新氏の連絡先は 東京都千代田区有楽町東光ビル一階 内田耕作事務所気付です)
11.偶然は必然であるというお話
 ・・・・・時間的には2章と3章のあいだに入る・・・・・

 上の題で、チマチマとしたお話を申し上げる。
 これは自慢話のつもりで書くのではなく、ハハアそういうこともあるかなという程度で受け取っていただければよいのである。あなた自身がこのような経験を毎日持たれるようになってから、あの本で読んだリンサンの話は本当だったんだな、とうなずくようになれば、たいへん喜ばしい。

 私はマンモス大学と呼ばれる日大の理工学部で英語を教えている。これがまあ定期収入というやつで、月に二万円がとこミイリがある。これで妻と三人の子供を養うのはちょっと骨なので、翻訳をとったり、バイヤーのガイドみたいな仕事に随時出勤してオカネを稼いでいる。
 しかし、住宅金融公庫の払いはとかく遅れるし、洗濯屋の払いもつい五千円くらいためてしまうありさまで、決して裕福ではない。それでも、私がオカネの正体を悟り始めたころから、いわゆるカネマワリがよくなり、『AZの教祖』という本も五万円近くどこからか資金を集めて出せるようになったのは、この秋のことである。
 がしかし、教十月二十一日、夜学を教えに家を出ようとして、一銭もないのに気づき、オクサンにむかって、タバコ代とバス代とで百円くれよと言ったのである。オクサンは、ハイヨというわけで、三百円ぐらいの全財産から気前よく百円わたしてくれたはずなんだが・・・。
 バスに乗ってから懐中をさぐってみると、こは不思議、穴あきの五十円玉が一つあるきり、困ったぞと思った。それじゃ、あの百円札(と思いこんでいた、ロクに見もしないんだから)を途中で落としてしまい、前に入れ忘れた別のオカネがポケットから出たのだな、と考えた。
 切符は買えたので恥をかかず、そのまま定期券で新宿まで来て胸算用したのである。タバコが欲しいな。しかし、いちばん安い「光」を買っても、残るは五円きりになるから、帰りはバスには乗れない。雨の中をテクテクと歩くか。しかし、三十分は長道中だなと思った。でも、タバコをのみたいという気持がつよかったので、あとは何とかなるさと威勢よく、「光ください!」と大声をはりあげた。
 こういう場合、考えられる手はいくつかある。
 1.同僚の先生か事務員に、みっともないけど、十円玉を一つ借りる。(バス代は十五円である)
 2.渋谷まで来て、知合の文房具屋まで、ちょっと道のりはあるが、雨の中を歩いてオカネを借りる。
 3.道で十円をひろう。
 4.バスの車掌の目をかすめ、ただ乗りをする。
 エトセトラ。
 3番以下は問題にならないので、1か2にしようと思っているとき(もうすぐお茶の水である)、ふと自分が小脇に抱えている二十八冊の英語教材のことを思い出した。
 この二十八という数が面白いので、ちょっと脱線させていただこう。
 実は、日大の学生のうち、夏休みまえに試験を受けそこなった者に、追試験願いを出すように掲示しておいたのを、一週間前に集計したら二十八名。
 これとは無関係に、四ヶ月まえ別の英語講習会で何百冊かテキストを刷らせたのであるが、頼んでおいた本屋の主人が清算して見ると、二十八冊売れ残っていた。それを私に返すとき、気の毒そうに、
 「悪いですな、ムダになってしまって。講習を受けるのを諦めてしまった学生がいたのでしょうかね」と言ってくれた。
 「なに、たいしたことはない」と私は笑って、残本を持ち帰ったのである。こういう場合、本の印刷代の赤字はもちろん教師の負担になる。しかし、私はあまりイマイマしいとは思わず、二十八冊の何の役にも立たぬテキストを大切にもち帰った。
 2章に書いたように、私はこの「無用」のテキストの「気持」に心の耳をすませた。テキストたちは、どうか私たちにも何か用をさせて下さいと言っているようである。
 「そうか、おまえたちもはたらきたいのか?」
 「そりゃ、そうですよ。仲間たちがみな学生さんの役に立ったのに、何の因果か、ぼくたちだけが“返本”だなんて情けない名前をつけられました。どうにかして下さいよ」
 「ふうむ、よしよし、心がけとくから、もうすこし待っておれ」
 私はそう言いおいて、ひもをかけたまま、机の横の目に見える所に積んでおいた。その後、だいぶ長くなってから、ヒョコッと「二十八」という数が出た。二十八人の学生が追加テストを受けたがっている。
 この「偶然」はどこから出たのだろう。これを「必然」と考えると、その暗合の仕組みはいろいろに想定されるが、そのうち二つの可能性を挙げると、
 (1) 7月に講習をやったときから、私の超心理的能力が、十月に必要がおきることを予知して二十八冊余計に刷らせた。
 (2) 私が「返本」の汚名を着せられた二十八冊のテキストに、「よしよし、何とかしてやる」といったときに、私の願いが或る動力となって(ライン博士はこの作用をサイコキネシス――念動と言っている)、ちょうど二十八人の学生に再試験を受けたい希望を起こさせた。
 (1)にしても(2)にしても、二十八という数が狂う可能性は無数にある。(1)の場合、28冊