AZの金銭征服
AZ時代;リスト
余計に刷るように私の超意識が働いて、印刷屋に命令を下したとしても、たとえば製本の工程において製本工がうっかりタバコの火を一冊の表紙に落として、キズモノを作り、一冊減ることだって起こりうる。店頭に並んでからだって、或る学生が一冊買ったあとですぐ紛失して、次の日又一冊会にくるということもある。つまり一人が二冊もってゆくことだって起こりうる。そうすると、無数の可能性を前もって全部見通してなおかつキチンと二十八冊残るように仕組んだ「超人的な知慧」がはたらいていると考えるほか、仕様がない。
 (2)の場合だって、正確に二十八人の志願者を集めるというのは、電子頭脳を必要とするぐらいの複雑な可能性の組み合せの結果であろう。

 十円の金策を考えていた私は、この二十八冊のテキストを追試験の準備教材として使おうと決め、前の日から自宅の机の上にのせておいて、今日、機械的にその包みを持ってきたことを思い出した。同時に、持って来るめに、どうせ残りものだから安くして五十円で学生にわけてやろうと決めたことも思い出された。
 講義が終わるまでに、二十八人の学生のうち一人でもこのテキストを買いに来てくれると、十円の心配をしないでいいんだがな、とフッと思ったのである。しかし、それには、学校に着いてから、その旨をポスターで掲示しないといけない。それも早くしないと、学生が帰ってしまう。ところが、まずいことに、私はゆっくりと家を出たため、学校につけばすぐ講堂にゆかねばならなかった。よしよし、ポスターは一時間目と二時間目のあいだに書こう・・・。
 そのうち、何もかも忘れてしまった。
 この、「何もかも忘れる」という私の癖が大切であるように思われる。私の忘れっぽさは天下無類で、一秒前に何をやったかケロッと忘れる。そのくせ、アイディアというか、天来の妙想は私の得意中の得意で、「考えないで考えを出す」コツが身についているのである。
 第一時間目――諸君、恐竜とはゴジラのことである!とか何とか、迷講義を終えて講師室にかえり、「光」をスパスパやっているうちに、ああそうそう、十円と思い出したのである。
 メンドくさいがポスターでも書こうかな、と立ち上がり、事務員に「ポスターを書くからマジック・インキを貸してくれたまえ」と言ったとたん・・・。
 この「トタン」というのが不思議なのである。この「トタン」があるので、私は「偶然とは未発見の必然である」というような哲理を考え出す。そしてこの「理論」は近ごろになって出来たのではなく、七、八年前から徐々に、私の心のなかに育ってきたものである。
 とにかく、とたんにニコニコと善良そうな学生が一人入ってきた。
 「実は、ぼく、追試験を受けに・・・」
 そう言っている先から、かれの目は私の「返品テキスト」の包みに吸いつけられているではないか。おまけに、今その上に書いたばかりの一冊五十円というマジック・インキの上に、ピタリと視線が吸いついている。
 「しめた」と私が思うより先に、五十円玉を学生君の指はポケットの中に探していた。
 私のお話しというのはだいたいこんなものである。オカネは向こうから飛び込んでくる。「人間」を乗物にしてサッとお出ましになる。
 ちなみに、帰宅してから、オクサンに、百円札を落としたよと報告すると、
 「アラ、百円玉をわたしたのよ」
 「そうかい? ポケットには五十円玉一つきりだったけど・・・」
 「そう、それじゃ、わたし間違えたんだわ」
 呑気な女房に楽天亭主。オクサンがわたし忘れた追加の五十円、別の方向から一円の狂いもなく、私の掌に飛び込んだという話である。追加、追加、そうだ。だいたい、話が追加試験の教材を売るというんだから、オチもうまく付いている。





 私の書くものは「随筆」である。文字どおり、筆に随がって出来てゆく。
 私の頭脳の司令部から発する方針などは、ゼロに等しい。方針など、かえって妨げになるのである。私は、自分を通じて外に出たがっている「何ものか」に忠実であればいいので、チッポケな「私」、測量ずみの「私」には何の興味もない。
 10章にウヌボレの徳を書いたのと、今この章で書いていることのあいだに、矛盾はない。自分が好きだ、というのは、この未発見の自分、つねに流れて新しいものを創ってゆく自分という「装置」が好きだということなのである。
 私のウヌボレは前向きである。世のたいていのウヌボレは後ろ向きである。自分はこんなこともやった、こんな教育も受けた、こんな善いこともした、わたしはクレオパトラより美人だわ、ぼくのネクタイは英国製だぞ――どれもこれも、既に表れている自分を問題にしている。そして、そういう自己観察に心を固定している。私のウヌボレは、まだ表れていないものに対する恋慕である。私が自分の容貌を見て「イカスゼ」と呟いたとしたら、それは、私の顔が、十パーセントの既知に興味がなく、九十パーセントの未知に喰いつきたい食慾を示しているからである。
 私はいま、13章を書いたあと、網代到着三度目の入浴をすませ、夜も更けて十一時半、ポカポカと暖まった手足で机にむかっている。
 だれ一人いない広い湯ぶねで、ポカアッとした気持で身体を伸ばしながら、私はこんなことを考えていた・・・。

 「もうける」という日本語はどういう意味なのかな? ふつう感じで「儲」という字を書く。これはおそらく、諸人(もろびと)の力が集まらないと「もうけ」はないといういみなんだろうな。とにかく人間がひとりいたら「儲け」は出てこないという意味を含ませて、昔の中国人がこの字を発明したのだろうな。
 だが待てよ、やまとことばで「もうける」というと「設ける」という意味もあるな。客席を設けるとか、上水道を設けるとか・・・。この「もうける」は、だれかのために(自分のためでもいいが)何かを設備するという意味だ。
 そうすると、「金をもうける」というのは、「金をしつらえる、設備する」ということになる。どこに?
それは規定されていない。どこにでもいい。日本銀行の金庫の中にでもいい。ラス・ヴェガスの賭博王のポケットのなかだって構わない。とにかく「もうける」という言葉には、「自分のもの」としての意味は全然ない。
 ところが、世間で「儲ける」というと、ほとんど一つの例外もなく、他人のふところでなく自分のふところの中にもうけ、必要なら他人を蹴とばしても自分の手に握り取るということになっている。これはおかしいぞ。どうして、そんなにりきむ必要があるのか?

 そんなふうに考えてゆくと、われわれが意識しないで使っている言葉の意味は、もともと案外に純粋なものであるのに、人間のほうで勝手に「ことば」をねじ曲げて、気ままに使っていることが分った。
 「もうける」というのは、たしかにその人の能力に関係してくるのであろう。寝床に横たわったまま、大小便垂れ流し、ただ死期を待つのみという人に、「もうけてみよ」と言ったって仕様がない。
 
12.“もうける”の意味