AZの金銭征服
AZ時代;リスト
ならぬほど惨めな失敗をく繰り返すが、十年二十年たつと、相当の仕事をするという事実です。なぜだろうか? その訳は、おそらく、多数の同胞の身の上を考えて努力する人間には、宇宙をつらぬく大きな「力」が感応しやすいためだろう。もちろん、試練は数限りなくやってくるから、テストを突破するまでに落伍する人が大半であろうが、最後まで喰いついている人間には、かならず応分の報酬があるはずである。いわゆる偉人の伝記を読むと、必らず、このことが確信できると思う。それに比べると一身一家の安泰を願うだけの人々の人生行路は、予想以上に困難であるあ。その苦しみかたも、長い時間にわたって針でチクチクやられるような痛みに似ていて一生のあいだ快晴の日はすくない。こういう人々に、私は心から同情と憐れみの気持ちを持っている。そんな「地獄」におらせたくないから、鞭でひっぱたいたり、罵言雑言をあびせたりして、その境涯から引き出そうと焦ることもあるが、このごろ、こういう焦りもムダであることに気づき出した。同情過多はいけない。静かに観ているほうがいい。或る時期が来るまでは何を言おうとその耳には入らないものである。
 金を集めたり儲けたりするコツがあるというと、まっ先に目を輝かして飛びつくのは、この卑小型に多い。そして、そのコツが効果ないと知ると、まっ先に怒り立てるのもこのタイプである。
 そういう人に、そんなコツはもともと無いんだよ、というのは余りに酷だろうか。嘘も方便というわけで、どこかの新興宗教なみに、誇大に御利益を宣伝して引きずっていったほうが、その人の身のためであろうか。しかし、私のペンの神さまは、私に別のことを書かせたいらしい。私にとってギリギリの真理を――。
 カネを集めるコツなど存在しないのである。コツを求めるから間違うのである。一番いいのはそんなことはすっかり忘れてしまうことだろう。カネやモノよりも、自分の生き方がそもそも正しい方向に向っているか、それを吟味したほうがいい。正しい方向とは、常識や道徳や世間の意見などに照らして正しいということではなく、自分自身が毎日をほんとうに充実して、楽しくいきいきと生活しているか否か、ということである。
 答えがノーであるとしたら、初めから計画し直すといい。穴に落ち込んでしまってからでは遅い。
 人生は、そんなに苦しまないでも生きていけるようになっているのである。前世の業で、生まれながらにしてメクラであったり、小児麻痺でからだの自由が利かなかったりする人もあろう。しかし、それはそれで、必ずどこかに埋め合わせがついているのである。だから、それを発見しさえしたらいいのだ。
 まず与えられた環境に、満足する。キョロキョロするのをやめて、最善である現在に腰をすえる。そして、自分の魂のなかに響いている声に耳をすます。
 第二に、落着いて、今自分が本当にやりたいことをやっていくのだ。カネやモノが足りなかったり、才能が乏しかったりしても、そんなことには目もくれず、世間の思惑など意に介さず、ただ好きなことをやってゆく。
 驚くべき発見は、世間の九十九パーセントの人が、やりたいことをやっていないということである。たいてい、何ものか外部のものに縛られて、いやいや惰性で毎日をすごしている。
 職業の問題一つ取り上げても、厭で厭でたまらぬ仕事をやっている人がいる。そんなこと続けていては、身体をこわしますよ、厭ならサッサとやめたらいい、と忠告すると、だって、これを辞めたら女房子供が餓死しますよ、と答える。ヘエ! あなたは奥さんや子供さんのことをそんなに想っているのですか、ときくと、当たりまえさと怒る。
 そうですか、じゃあ、自分の身がどうなってもいいくらい妻子を愛しているなら、どうして今の職業に不満なんか持つのです? 妻子が暮らしてゆけるオカネを供給してくれる今の職場に、心から感謝して然るべきと思うんですが・・・・・・。
 相手はおそらく黙るであろう。妻子もかわいいが、自分の身もかわいいからである。もしかすると、自分の身のほうがずっとかわいい人もいるかもしれない。
 さらに言うと、厭だという気持ちの底には、こんなにいつまでも上役にこき使われてはかなわないとか、隣りの山田のやつ、若いくせに四万円も月給をとりやがってとか、相対的な自己評価でムシャクシャしているだけのことが多い。積極的に何かをやりたいといいうのではない。だから、不平不満を十年間持ちつづけても、環境は少しも変らない。かれはいつまでも下っぱで、他人の奴隷に甘んじている。
 やりたいことをやれと言われても、実は、なにもやりたいことがないという人が圧倒的に多いのは、驚くべきことである。人類の大半がいかにいじけているか、このことだけでもよく分る。
 人間はもう少し大らかになり、幼児のころの心の健康を取りもどさねばならない。それには、私が書くような本を何冊もくり返し読んだり、もうすこし広やかな心をもった人間に接近して話をきいたりして、徐々に感化を受けてゆかねばならぬ。
 金集めのコツなどという末梢的なことを追いかけ廻していては駄目である。
14.オートマトン
 執筆の速度は急ピッチになっている。
 十一月二十一日の朝、白とり荘では団体客が来るので、もっと静かな宿を探して上げましょうということで、ひるまえに水神川の東岸にある「秋月」に移った。今度は三畳の部屋で一畳の控えの間がついて、一泊二食九〇〇円である。ここは新築で、小部屋ばかりである。アベックや小家族なら気のおけない宿であろう。“歓迎××会社資材課様”などという立札も立たないし、土・日も静かなものである。熱海市和田木四三二番地に前もって連絡すれば、安心して網代にこれる。
 部屋にくつろいでから、13章の後半を書きつぎ始めた。流行作家のように編集者の意向や締切を気にしないで、思うままに書けるというのは、正に王侯の豪奢と言えよう。
 好かれようと嫌われようと、相手かまわず書くラブ・レターのようなものである。いい気なものと評されればそれまでである。
 私は書くことによって喰う必要はないので、これは完全な趣味である。趣味なればこそ、世間を気にしないで放談もできる。世の人はこのようなたぐいの「自由人の声」を聞きたがっている。出版社の商策によってデッチ上げられたベスト・セラーを買って財布を軽くしたり、学校教師が推せんするっ“名作”や“古典”で肩をこらすのはもう結構、というのが正直な民衆の気持であろう。私はその盲点にもぐり込んでいる。
 菊池寛の通俗小説が当時ものすごく売れたのは、そのころの大衆が、いわゆる上流社会の生活にあこがれていたからである。ちょうど、デパートの七階にある特売場で一、二点買物をしてから、帰りがけにショー・ウィンドーに飾られた何万円という品物を見つめて目の保養をするようなものである。
 しかし時代は変った。経済上の階級組織は昔ほどに固定したものでなく、社会全体が急速度に変化する流動状態におかれている。民衆の最大のねがいは(それが無意識のものであってもいい)、起伏する社会の潮のなかに押し流されない主体性を獲得することである。平たく言えば、大衆の一人一人が「自由人」になりたがっている。また、潜在意識でそれが可能だと信じている。なにしろ、月の裏側が写真にとれる時代である。大宅壮一が催眠術にかかる時代である。東京大阪間を汽車にゆられているまに、羽田発のジェット機はアメリカについてしまう時代である。AZなどという思想が出てくる時代である。

 とりわけ「スブド」である。
 現在、このオカネの本を読んでいるあなたは、章を重ねるにつれて、オカネの重圧感がしだい