AZの金銭征服
AZ時代;リスト
に軽くなってくるのを自覚されていることと思う。そして、この著者が書いた別の本を読みたいと考えておられるにちがいない。
 何よりもまず、このシリーズの第四巻『AZのスブド』を読んでいただきたい。これは魂の強化と純化をめざすスブド修練の手引書である。私がAZを産み出した原動力がスブドである。私は一生、スブドを始めたムハマッド・スブー師に対して、尽きせぬ感謝の心を抱きつづけることであろう。
 スブドは「真の人間」を大量生産する宇宙世紀のメカニズムである。何の準備もいらない。教養も研究も不必要だ。オカネもいらない。手のひらを合わせて、雨のしずくを受けるようなものだ。その代わり、覚悟しなければいけない。スブドにぶつかったら、自分の魂の中にすさまじい連鎖反応が起こるということを・・・。
 人間の革命という言葉では、まだナマぬるい。完全な造り変えである。ぶちこわして、瓦礫の山にして、ブルドーザーで全部きれいにし、しかるのちの再建である。気の弱いものに向く道ではない。
 しかし、私はAZシリーズの各巻に、スブドのことを書いている。それとなく誘っている。同時に『AZの教祖』のような本を書いて、ナマハンカな覚悟で近づくなよ、と警告もしている。
 私の金銭論は、おそらくムハマッド・スブーの主著『スシラ・ブディ・ダルマ』(Susila Budhi Dharma)中の“シノムの章”第30節数行に、全部縮めることができるものかもしれない。第30節は次のようなものだ。

 「生命をもたない無機物は、一見それ自体の力をもたないように見えるが、実は、極めて強い牽引力をもっている。なぜなら、その本質において、無機物は人間の心の性質と対応しているからである。」

 この『スシラ・ブディ・ダルマ』はノールウェイで印刷された英訳本(インドネシア語の原文もついている)では386ページの大部のもので、その邦訳は私が五年前に着手し、全五分冊で完結の予定だが、第二分冊までしか印刷されていない。私は今年中に第三分冊を完訳することを世界スブド同胞会の皆さんに約束し、一字一句吟味しながら訳筆を進めているが、その進捗は意のままにならず(私の意志で気張っても出来るものではないが)、今日の東京逃亡の目的の一つは第三分冊の完成にあった。
(1960年暮れまでに第四分冊まで完成したー後記)
 ところが、網代について二十時間、私はまだ一筆もこの仕事に費やしていない。私の筆は『AZの金銭征服』のほうに走って、到着以来、すでに四百字原稿紙で四十四枚も書いている。
 潮にまかせる私の生き方は、この件においても躍如としている。私はいつになったらその翻訳にかかれるか、一向に見当もつかず、手当たり次第にこれを書いているだけで、仕事の高下軽重の評価は全然私の脳中にないようである。
 まことに、私は自動人形(オートマトン)である。やりたいことをやっているだけ、風のまにまにただようだけ。秩序は向こうさまが付けてくれる。あるいは初めからついている。
 ガソリンが切れたとき停まるし、注油が終わったらまた動き出す。無理はしない。もともと、無理する「自分」はないのだから。あっても、それを本気では信用していないのだから。
15.ゼロの人間がいるよ
 もう日曜である。朝から『スシラ・ブディ・ダルマ』の翻訳にかかり、午後二時には第三分冊が全部すみ、散歩に出る。首すじが凝っている。いくら知的労働者だと言ってみても、若いのにこんなに凝り性では仕様がない。アンマを頼もうと思いながら歩いていると、橋のそばで狂人に会う。
 すれちがいざま、私のそばによってきて、
 「ゼロの人間がいるよ。ゼロか、ゼロは駄目だね」
 キチガイには慣れているはずの私も、だしぬけにこのような哲学的宣言をされて、思わずギョッとする。ニヤニヤとごまかし笑いを浮かべて遠ざかる。オレはまだまだだなと反省する。相手がキチガイだろうとライ病だろうと、立ちどまって友だちになり、話し相手をしてやるようでないと、まだ本物とはいえぬ。
 それにしても「ゼロは駄目だね」と見すかすようなまなこで、私の顔をキロリと見たあの老婆には、たしかに一本取られた。あの言葉は、凶女が自嘲してつぶやいた言葉とも取れるし、アタシもオマエも同類だねという親愛のことばとも考えられるし、あるいは、ぶっつけに狂人特有の直感力で私を批評し去ったことばかもしれない。とにかく気味がわるい。
 やりすごしておいて、水神川の橋げたにもたれ、しばらく心を静めていた。そばに三つぐらいの男の子と女の子が、串おでんをほおばって遊んでいる。
 「リカ、リカが!」
 「リカってなあに?」
 「リ・カ!」
 「うん?」
 男の子は、女の子のそばによって、わからない言葉をたしかめている。
 「リカが、リカがワンワンというわよ」
 「ワン、ワン、ああ、ワンワンね」
 男の子は満足して、コンニャクのなくなった串を橋の下に落とした。

 宿に帰ってこれを書き出していると、頼んでおいたマッサージ師が来る。駅前のカゴシマという店から来たらしい。妙令の美女だ。十九か二十というところだ。ヤニさがっていると、やにわにツボをぐいと突かれた。左半身、上から下へ立て続けに急ピッチの攻撃、ただハッハッハッと息をするだけのありさまだ。向こうも無口、ただ仕事熱心で、熟練した腕前を見せる。無我夢中の四十分がすぎて、二百五十円を払う。いい腕である。網代にお出での読者はぜひカゴシマ屋とご指定のほどを。
 コマーシャル・ソングというのはあるが、コマーシャル随筆というのは私をもって創始者とする。今のところ、頼まれない無料奉仕のコマーシャルであるが、あと何年かすると、私の門前に市が立つであろう。
 「わが社の新薬ドンピシャリをテーマに一冊書いていただきたいのでございますが・・・。ぜひリンサン先生のご麗筆をもって、日本の津々浦々に“ドンピシャリ”を宣伝していただきたいので」
 「ふむ、『AZのドンピシャリ』という題名のわけだね。まあ、よろしかろう。その代わり、いつ書けるかわからないから、自由期だぜ、本の書き上りは」
 「ハ、ハッ。結構でございます。つきましては、当社の方針といたしまして、初版は一万部、装釘はブタクマ画伯に依頼して、特別豪華版にいたす所存でござりまする」
 「ああ、たいへんよろしい」
 「なお、定価のほうは、本社宣伝部の協議の結果・・・」
 「定価? 定価などはけしからん。せいぜい小売書店に販売手数料をタップリ取ってもらうだけにしろ。AZの本が自由価だということは知らないとは、キミはもぐりだね」
 「ハッ、すみません。まことに気のつかぬことを申しまして」
 「まあ、いいや。見たところ、四百円ぐらいの値打がありそうだったら、二割で八十円、いや、思い切って一冊百円の割で、小売店に支払いなさい」
 「ヘエ? 私どもが払いますので?」