AZの金銭征服
AZ時代;リスト
 「そうさ。君は一万部出すと言ったね。その百円倍なら、わずか百万円じゃないか。本の印刷や製本代は二百万とかからぬはずだぜ。天下のドンピシャリ製薬ともあろうものが、ケチケチするなよ」
 「ハハア、ではそのご意見に従いまして・・・。ところで先生へのお礼はいかようにしたら結構でございましょうか?」
 「ぼくかい? 決まっているよ、自由価さ。ピース一箱でもいいし、千両箱をたくさんつみ上げたっていい。できると思う範囲にしなさい」
 「ハハアッ!」
 てなわけで、宣伝部長は帰って行った。なるほど、このやり方でいけば、日本中の読者に一円の負担もかけないで、私の本が読んでもらえるわけだ。
 不定価も本来なら無代価のはずなのだが、暫定的妥協策として自由価制を採用したのである。くわしい事情は『AZの教祖』のなかに書いてある。
 私がAZシリーズを自費出版して、寄付を読者にこうているあいだは、この運動はまだ本物ではない。もちろん、読者としてタダで読ませてもらって申しわけない、なんらかの形で謝意を表したいという人があったら、百円札を一枚私のところに送ってきたっていいし、土地の名物のシイタケでも一箱送りつけたっていい。あるいは、ドンピシャリでも一びん買って、スポンサーへの義理を立ててもいい。そのいずれかでも自由である。しかし、私としては、読者に何の負い目も感じさせたくないのだ。無代価というのは、つまりプレゼントということだ。サンタクロース精神である。人間、ひとたび自分をゼロにすると、こういった離れ業ができる。相馬市の同胞柴田武雄氏がいうように、「ゼロはすなわち無限大」なのである。
 私が例の狂女に「ゼロは駄目だね」と言われてギクッと来たのは、私が全身全霊をもってゼロの徳を信じているのに、かの女が真っ向から反対してきたためである。(今わかった!)
 太陽は丸いと思い込んでいるのに、「ヘヘヘ、お天道さんは三角ですよ」などとだれかに言われたら、ギクリドキリとくるだろう。
 解決はかんたんだ。私は正直で、あの髪ぼうぼうのばあさんは狂気だということさ。
16.馬鹿が死ぬ道
 貧乏人はケチである。旦那衆はオオマカだ。
 そういうふうに世間では考えているが、これは反対なのである。ケチだから貧乏になるし、オオマカだから金持ちになるのである。このことをよく考えてもらいたい。
 金持ちでもケチケチするのはいるよ、とだれかが反対するかもしれない。そりゃいるだろう。しかし、そういうのは本物の旦那衆ではないんだ。成金にケチケチ型が多いのは、実力以上の地位にのし上がったから、たえず戦々キュウキュウとして、せっかく手に入れたオカネにしがみついている状態である。
 一銭でも大切にする心がけがないと、金はたまるものではない、と説教する人もいる。しかし私は金をためることを説いているのではない。金をもっていようと、いまいと、オカネを征服しオカネを下僕にし、オカネの重圧から開放される道、自由への道を教えているだけである。
 貧乏人でもオオマカなのがいる。しかし、よくよくその人を観察しなさい。虚栄から、人からケチと思われたくないから、また人に貧乏人とさげすまれたくないから、演技をやっている人が多いんだよ。
 そういうのは、いくら芝居を打ったって、根がビンボウなのだから、心が貧しいのだから、一生ウダツがあがらない。
 逆に、一銭、一銭吟味して払っているような人でも、必要がおきれば、困った人にポンと大金を投げ出す人がいる。こういう人は、十円玉一枚でもチャンと生きていて、りっぱな使い方をしてもらいたいと願っているのを、本能的に知っている人だ。二百円のネクタイですむのに、人から驚嘆されたいために千五百円の蛇皮ネクタイなどぶらさげるのは、バッカじゃなかろうか。
 ほんとうのケチは、単にお金の使い方でなく、その生活万般、歩き方から考え方にいたるまで、すみずみ、はしばしに、そのケチ性があらわれているものである。それを見抜けない君は、まだ眼力ができていない。
 たとえば、ちょっとでも、人から反対されると、真っ赤になっていきり立ち、相手を説得しようと躍起になる人はケチである。
 間に合うつもりで駈けてきた汽車にのりおくれて、車掌にむかって拳骨振りまわすようなやからはケチである。
 心にゆとりがない。
 今度の日曜日に腕時計を買ってやるからと言ったパパの約束がはずれたといって、一日中ふてくされている娘さんはケチである。
 めざす第一高校の入学試験におちたからといってノイローゼになるのはケチである。
 共同経営の兄貴が認めてくれないといって、お茶屋でやけ酒あふるような弟君はケチである。
 その他、たくさんケチがある。
 なんでも、心に決めたとおりにことが運ばないと不機嫌になる社長は、大いなるケチである。
 こんな誠意を尽くしてやっているのにと、取引相手の不信をなじる番頭さんはケチである。
 どうして、もっとゆとりを持たないのだろう。
 人生は、思うようにいかないからこそ、面白いのではないか。釣りに行くのに、四十八匹釣れると予定したところ、二百三十三匹の大漁があったからこそ、釣りのうまみがあるのじゃないか。また、バケツに一杯取れるつもりで船出したのが、完全なゼロでもどってきたからこそ、今度こそはとふるい立つのじゃないか。
 六匹と計算すれば、六匹、五十匹と決めれば五十匹、百回出かけていつも計算どおりピタリといったら、もう釣りざおも放り出したくなるではないか。
 ソクラテスのような賢人でも、天下の悪妻を嫁にもらうという誤算をやらかした。しかし、あのザンティピがいたからこそ、その変人の醜男も後世に名をとどろこかす大哲人になったのではあるまいか。
 人生、何が幸いするかわからない。
 小さいことに腹を立てなければ、目の前に出てくる一つ一つの意外事が、みんな、あなたを幸福の港に連れて行ってくれるハシケだということがわかるだろう。
 注意ぶかく、あくまで注意ぶかく、両手で小判を受けるがごとく、人生上の小さい出来事を受けとめてごらんなさい。がっかりしたり、シャクにさわったり、ムカッと来たり、天をうらみたくなったりしたとき、こう考えてみたらどうだろう。
 「このことを、隣りのモクベエのところに話にいったら、あいつもおれと同じくらいショックを受けるかなあ?」
 おそらくノーであろう。隣りのモクベエさんは、鼻毛でも抜きながら、
 「ハハアン、大したことじゃねえぞ。くよくよするなよ」
 と言うだろう。そして、あなたはモクベエのことを、同情心のないやつめとののしって、席を蹴立てて帰ってきてしまうだろう。
 人間とは、おおむねそのような愚かなものである。自分は利巧者だと思いこんでいる大馬鹿がいる。自分は馬鹿モンだと本気に思い込んでいる大馬鹿もいる。
 馬鹿は死ななきゃ治らないと言うと、人を馬鹿にするなと怒り出す馬鹿もいる。
 AZは、馬鹿が死ぬ道を教えているのである。