AZの金銭征服
AZ時代;リスト
 帳場に降りてゆくと、てんやわんやの騒ぎである。さすがは二日つづきの連休、その第一日目の日曜の夜とあって、着く列車ごとにアベックや団体が駅にあふれ、宿をさがしあぐねて、軒並みにウロウロしているらしい。
 現に私が帳場にすわりこんで、おかみと話をしていると、つづけざまに二組のアベック、遅い組は交渉役が女性のほうという、陰陽逆転派であるが、これは断られて途方に暮れていた。
 私の泊まっているここ「秋月」はもともと小料理屋であったらしく、部屋もせいぜい六畳どまり、今でも宴会くずれのお二人が人目をさけて恋をささやく連れ込み宿が本体かもしれない。
 「二階でお勉強の先生」も、ここのところ、オカネもうけの本を書くのにもくたびれて、東京の奥さんに電話でもかけたくなったらしい。なにしろ、奥利根のどこかにゆくぐらいのことを言い置いて、東横デパートで別れたままであるし、所在不明の夫をもった女への憐れみもあり、四二一局の八六一六に即時をたのむ。熱海では七百人の芸者衆が全部売り切れというにわか景気、と夕刊も報じている。各地の行楽場から東京めざして電話が殺到しているにちがいないから、私のがもう一時間も待たされているのも、無理はなかろう。
 “おかあさん”と呼ばれている女将と話をしていると、新生に火をつけながら、こんな小さい温泉町にも芸者は六十人もいるという。しかし、こんなに混み合っては、二人ひそかに肌すり合わす空部屋とてなく、人気のある芸者さんでも「枕」で稼ぐわけにもいかない。宿屋はもうかってもあのひとたちはねえ、と女将の同情も身が入っている。おおかた、この人も姥桜のくちなのであろう。
 「マクラって泊りのことなんだろう?」
 とボクネンジンの大学先生がたずねれば、
 「ええ、十二時から先で、片手ですよ」
 片手とは五千円のことかと問いかけたこの男は、またすこぶるつきの野暮天だ。
 「今どき、そういう人もすくなくてね」
 とは、キング・サイズの聖徳太子を紙屑と心得るお大尽は、網代くんだりまでナカナカお出にならぬということでもあるのか。
 オンナを買うと言えば、私が東京を離れるとき、通訳をしてやったあるバイヤーの所望で、「なるべく素人娘」というのを探しに出かけたものだ。その道にくわしい友人に頼んで、取引の現場には立ち会わなかったが、そのときの友人いわく、
 「東京のあるデパートで、真珠のネックレース一つでお望みのままという売子がいるよ。センセイ、どうです?」
 このセンセイ、よほど物ほしげな顔でもしているのだろうか。女に関する罪つくりは、貧乏人には縁がないが、なまじっか金持になると、これは最初の誘惑であろう。
 この本をよんで、たちまち効き目があらわれて、にわか成金になり、そのまま女道楽で身をほろぼしなどという読者も、出ないとは限らないから、私はここで少々「オンナとカネ」という問題について説教を垂れようと思う。
 オンナとカネはつきものというが、これはあながち商売女のみとは限らず、家庭の貞淑な妻の場合も、決して油断してはならない。
 読者のなかには未婚の人も相当いるだろうし、なかんずく女性読者はこのような文章を不潔として忌み嫌う習性をもっているが、歯にキヌ着せぬのは私の持前なので、大目に見ていただきたいもの。
 未婚の人、特に若い男性は、女性に関して手放しの理想主義をおもちの人が多く、われらに純愛のみあらば、オカネの苦労は何でもないと信じ切っているのであろう。しかし現実はそのように甘ちょろいものではなく、またあなたが崇める聖なる処女も、添ってみれば、それほど精神的なものではない。
 人間が物質力の滲透を受け、モノとカネのおもちゃになっている実態は、思いのほかすさまじいものである。身の毛がよだつといっても、決して誇張ではない。
 本物の楽天家は、どうあっても、悲観主義のドン底をくぐりぬけてくることが必要だ。単なる厭世ぐらいの感情でお茶を濁ごしていては、輝やかしい楽天主義の天国に羽化登仙することはおぼつかないが、人間の救いがたさをしみじみと悟るには、やはり生まれつきの剛勇が要求される。
 永遠を誓い、天上の音楽にうつつを抜かし、ひしと寄りそう性の歓喜に、地上の労苦などゼロに等しいと見立てた相愛の二人にも、きびしい生活の波が仮借なく押しよせ、年月がたつにつれ、ピンクにけむるランプ・シェードの睦言も、いつしか、あすの払いを如何にしようととげとげしい口争いに変るのは、人の世の習いとは言いながら、傷ましいかぎりである。
 女とは地に付いた性であるがゆえに、殊のほか「弱き性」である。ご用聞きの毒づきに一日胸を痛め、お向かいの縁側から運びこまれた三点セットに目を奪われるのは、無理もないことなのである。
 男たるもの、このか弱き性をののしってはなるまい。
 「おまえは何という物質的なやつだろう」
 そう極めつけるのはやさしい。しかし、叱ってもたたいても、女のさがは一朝一夕に変るものではない。
 ボーナスだよといって、数枚の五千円札を机におけば、たちまち一家は明るくなる。女のひとみの輝やきは家庭の空気を支配するからである。
 あまりにも単純な、あまりにも浅薄な、と慨嘆して、一時は妻への愛もさめ果てたこともあった。しかし、これが偽らぬ人間の姿である。
 杖を求める盲人に望遠鏡など渡して何になるものか。三日飯をくわぬルンペンにセザンヌの絵をわたして何になる。
 われわれは自分の基準で人を裁いてはならぬ。裁けば、裁いたことによって、その人とのつながりは永遠に断ち切れるではないか。
 欲するものを与えよ――これは愛の黄金律である。欠乏している者には、まず充溢を与えることである。飽満した者には、また節度を説く道もある。貧寒の悟りを伝える手だてもある。しかし、それには長い長い時間が必要だ。
 片手で一夜の春を売る女たちに、私はまだ触れたことはないが、かの女らの気持はよくわかるつもりである。その職業上の粘膜は機械的に熱することもあろうが、かの女らの魂はいかに寒々と冷えわたっていることであろうか。白け切った心と身体を抱いても、一人の女を自由にしたという錯覚で、かりそめの満足を味わう男たちもいる。
 片手ほどの大金も、タクシー代くらいにしか感じない男たちも、家庭には富に疲れた妻を残してきているのであろう。くさぐさの心わずらいに疲れ果て、結婚生活の敗北感を反芻している留守居の妻はまだしもである。三越で最上級をと指定して、今しがた届けられたウール地の着物をこれ見よがしに訪客の前でひろげてみせたり、火薬工場の爆発で無残な死に方をした人々のテレビ・ニュースを、かわいそうな人たちね、ぐらいの批評一つで、プロレスに切り替える有閑夫人の魂も病んでいる。
 夫と呼ばれる金のなる木が、今宵もまた商談と称して、いずこかの温泉宿で不見転芸者のほっぺたを嘗めている図を知ってか知らでか、オカネさえきちんきちんと入れてもらえれば、たいていのことは我慢しますワと悟り澄ました奥方も、憐れなものである。
 たしかに、どこかが狂っている。われわれの愛する地球の上にくりひろげられる男女からみ合いの図は、たしかにどこかが狂っている。
 貧しい人々よ。お金持の家庭がいかにサクバクとしたものか、よくよく考えてみたことがあるか。
金持かならずしも金銭の主人公ではない。金銭に征服された百万長者がゾロゾロいるではないか。
 貧しき人々よ。お金を羨むには及ばない。巨万の富に心めしいている人々よりは、あなたがたの
17.枕は片手