AZの金銭征服
AZ時代;リスト
ほうがよっぽど幸いである。かれらは金銭の魔力で身も心も鈍くなっているのに、あなたがたは隙間風の冷たさに目ざめていられるではないか。
 人の世はシーソー・ゲーム。上ったものはこのさき下るだけのことである。いま下にいるものは上昇するばかりである。運命のシーソーは無感動な公平さを示している。泣き笑いをつづけるのは人間ばかりである。
 男たちよ。女は金で自由にできるとうそぶいている男たちよ、君らは肝腎の自分が金銭の奴隷になり切っているのがわからないのか。
 女たちよ。金さえあれば何でもできるとタカをくくっている女たちよ。結婚という法律の隠れみのの下で売春を行って恥じぬ女たちよ。あなたがたは、死後の世界のことを、一瞬でも考えたことがあったか。

 オールナイト片手一本、それもよかろう。しかし、その先がある。
18.マンモスを投げ飛ばす
 威勢のいい題であるが、実をいうと、この巨象を投げ飛ばすまでは並たいていのことではなかった。そのあと気息エンエンとまではゆかなくても、フウフウ吐息をついたのはほんとうである。
 オカネの力おそるべし、という良い体験談なので、ひとごとながら聞いてほしい。
 マンモス象とは、週刊誌に七十周年記念式典に天皇皇后両陛下のご来臨をかたじけのうしたマンモス大学と評された日本大学、世のインテリ族からはポン大と軽くイナされるが、その財力からいうと早稲田慶応も尻目にかける実力をもっている。両国の元国技館をアッサリ買い取って講堂にしてしまうあたり、一億円の感覚もわれわれ庶民の千円札一枚ぐらいのものであろうか。
 この日大のメシをはんで、私もここに一年八ヶ月、毎月のサラリーはまだ平講師の分際だから二万数千円にしかすぎないが、ボーナスや研究費その他を合わせれば年額四十五万円をくだらないであろう。貧家に生まれて、若いときから大家族を抱えて苦労した私には、これだけの額でも相当豊かに感じられ、特に母親や女房に与えるこの地位の安心感は相当のもののようだ。
 私としても、親や妻にこのまま安心感を与えつづけたいのは山々だが、とにかくこの憂鬱感はいかんともしがたい。週に昼間二回、夜一回の出講で、一週を三回で暮らすよい男ということにもなりそうだが、たとえこれが一週に一時間の出講でも、この憂鬱感は同じことであろう。とにかく、その時間中は私という男は死んだも同然になっているのだから、この窒息状態が定期的にやってく生活は、オカネをどんなに積まれたってたまらないのだ。
 ほんとうに、私は教えるという仕事が嫌いらしい。これでも、大学を出た当座は若い人たちを相手に、関係代名詞の用法や接続詞の種類を幾度も幾度も、飽きもせず、けっこう相当の情熱をもって何年かを送ったものだった。それがトミに嫌いになった。英語を教える能力のある人など、日本中に何万人といるだろう。私と同程度に効果的に教える能力をもっている人だって、何百人もいるだろう。私はきっと、自分がマンモス大学の先生の椅子にかじりついていることによって、ほかのだれかさんのパンを奪っているにちがいない。つくづく、そう思えるのだ。
 ほんとうにやりたい仕事だけをやればいい。だれにも気兼ねや義理立ては必要ないはずなのに、私はもう一年以上も同じ問題で心をなやましてきている。全く、オカネの魔力はおそろしいものだ。
 網代温泉から帰って、二十四日、休み明けの第一日であるが、私は女房を安心させたい一心で眠い目をこすりこすり、総武線に乗って、とにかく新小岩付近までやってきた。
 そのときである。途端に私の決心が結晶した。いつ、そういう瞬間がくるかとひたすら心待ちにしていたのだが、まさかこの日、こんな所で「それ」がやってくるとは夢にも思わなかった。
 衝動的だなあ、と人はあきれるであろう。また、右のような心境をそのまま人事関係の主任教授に話をしても。きっと理解されないであろう。また私が、右のような心境をそのまま人事関係の主任教授に話をしても、きっと理解されないであろう。私は、いよいよ十二月にニューヨークに行かなくちゃならなくなったくらいのことを言って、教授を驚かさなくてはならないであろう。
 ウソは否応なしに私について回る。人を安心させるために・・・。三十時間かかる説明を三分間ですますために・・・。これはいたしかたない。
 私は新小岩駅で降り、郵便局に直行して、本日休講すよろしくたのむと電報を打った。これもウソである。仕方ない。次のような電報を打ったら、どんなことになるだろう?
 マンモスダイガクナレド モイヤニナッタ」キョウカラオシエニユカナイカラヨロシクタノム」ジウビシ
 津田沼校舎の事務室は一日中なんだかんだとディスカッションに湧き立ち、仕事はすくなくとも半日は遅れるであろう。私の動きは非常識だから、なるたけ常識でカモフラージュして他人を刺激しないようにせねばならぬ。カナメの所だけ、私の「正直」を爆発させて前進してゆこう。こういう忍耐力だけは、ここ数年間だいぶ養われてきたようである。
 私はすぐ逆もどりして神田の范さんに会いに行った。この中国人の友は私といっしょに輸入貿易をやりたがっている。英語など教えるよりは、やはりビズネスのほうがずっと私の行動慾をかり立てるのである。

19.泰山鳴動
 ネズミ一匹である。
 あの日、私は意気込んで、神田紺屋町滝沢ビル二階の井上兄弟商会に出かけ、社長の范氏に会見した。
 近所のレストランで豚カツをつつきながら、これこれしかじか、あなたの仕事を一生けんめい応援して、マンモスのほうは蹴とばすから、女房の気を安んじるための月額なにがしかをギャランティーしてくれないか、と切り出すと、二つ返事で二万五千円出しましょうという。
 范氏は香港にいたときから李香蘭を呼んで映画を作ったという豪の者。現在いささか寂れたとはいえ、ビューウィックを乗り廻している。停年ぐらいの齢になったら孤児院を作ろう、会社の利益の四分の一は年に何回でも従業員全部に均等分しようというキップのよさで、日本人には見られないカラリとしたところをもっている。三十そこそこでも旦那衆の貫禄を持ち合わせている。それが気が合うゆえんなのだ。
 台湾から入れたばかりという蛇の皮をぶらさげては、「奥さんの足何文? これですぐ一足作ってあげましょう」などという。