AZ時代;リスト
20.またぞろ
 前にも最新流行の支那服を香港からオーダー・メードで取り寄せようというので、半信半疑女房のサイズをわたしておいたら、一週間ぐらいで空輸してきたやつを持ってきてくれたことがある。そのとき、気前の良さと電光石火の実行力に舌を巻いた。
 私はナンデモ屋で、清濁あわせ呑む性向を生まれつき持っているらしく、交際範囲は三才の赤ん坊から八十才の老爺にいたるまで、ルンペン氏から富豪にいたるまで、覚えていられないくらいである。こういう人生模様のマンジトモエのなかに、私の果たす役割はどういうものであろうか。かならずしも主役というものではない。時に応じ場合によって端役も引立役もやっているのである。またそのほうが気楽のようだ。自分の役柄を勝手に決めて、それに執着するような役者では、舞台監督も苦労であろう。私を動かす「監督」は、他の数千数万の役者をあやつっている「監督」と全く同一人物である。
 オカネというのは、この神劇の筋のからみ合いのなかで、おのずと与えられる「報酬」であって、監督兼プロデューサーである「神さま」は、やはり熱心な俳優にタップリとギャラをはずむであろう。


 数日後、舞台は変わって、駿河台の日大工学部講師室となる。コレコレシカジカと私の説明が終ると、主任の柏原教授は、
 「しかしそれはまずいな。私は君に本学英語陣の将来を託そうとぐらい思っているのだから、やはり大学を主に考えて、あとの時間で他の社会活動をやってもらいたいなあ。人材は得がたいものだから・・・」
 こうなると、事は単にオカネのことではなくなる。「人材」と見込まれたのはコソバユイほどであるが、やはり信頼に答え、老教授の心を安んじたいという願いが油然と湧いてくる。
 私はドライのつもりでいるが、事が情にからんでくると、ドライも怪しくなってくる。ただもう、色々の人を喜ばせたい、満足させたい、安心させたいという気持ちばかりで、そこらをウロチョロしているようなかっこうになるのである。
 マンモスを蹴とばすぞと大見得を切ってみても、風向きしだいでクルリと変る私の決心なぞ、決心のなかに入らないかもしれない。だいたいが、決心などという気の利いた真似はしないほうが自分の柄に合っているようである。
 げにも浮き草のように、水面を吹き来る風にもてあそばれてあちこちするように、五十、六十と年を取り、宮沢賢治がなりたがった「あの人」のように生涯を終わるのではあるまいか。
 こう観念しても、悲哀感も不安感もさらさらなく、ただ空々漠々としてくるから妙である。底抜けに明るい私の楽天性は、日ましに磨きがかかってくるようであるし、身体は他人の十倍も忙しくても、心のなかはひまでひまでたまらないほど、二十世紀退屈男の大あくびは宇宙をとよもすくらいである。
 〔しかし、翌一九六〇年五月 やっぱり私はマンモスを蹴とばしたーー後記〕
AZの金銭征服
 お茶の水駅から小川町に下るだらだら坂の中程、左側にSHADOWという喫茶店がある。ここは前に、詩人の江口榛一氏と初めて会見したところでもある。
 十二月一日、朝の九時にここに到着。ウェイトレスのヨウコさんがすこしプリプリしているのを横目にみながら、今朝のことを思い出す。
 新宿駅ーーあれは何というザマだ! 東京行き上り急行のホーム一番線と二番線に殺到する人種は、東京の不自由人の標本ぞろいである。
 学生は出席点呼に遅れると点数が悪くなり、成績が悪いとロクな就職もできなくなり、五流会社に入り込めば奥さんも五流美人で我慢せねばならぬ。
 サラリーマンは、下手をすると、自家用車でご出勤になる課長より十分も遅れて到着する破目にもなりそうだ。コイツ働きがないなと見られたら、九州の工場詰めにされてしまうかもしれないし、ボーナスを半額ぐらいに減らされるかもしれない。
 東京駅で九時前にと約束したブローカー氏は、相手の短気な金満家に待ちぼうけを喰らわせたら、三百万のボロもうけもフイになるにきまっている。
 その他多勢・・・。だれもかれも電車にしがみつき、そのためかえって予定時間を四分も五分も遅れて電車がヒョロヒョロ出発するのを気にする人もないようだ。四十年配の小母さんが三十男に突き倒されて、泣きベソを掻きかき、すそのちりを払ったのはいいが、腹いせに、男の背中をボカンと叩いた。
 見ていりゃ、全くの喜劇だ。毎朝こんなことをくり返さなくては生きてゆけないなんて、だれがこんな仕組みにしたのか! どこかが狂っている。
 不自由人であることに皆が満足しているうちは、世の中はいつまでもこうであろう。
 オカネと他人の思惑にふりまわされて、こうやって十年二十年と歳をとってゆく人たち。憐れみの目をもって群衆を見守るよりほか道はないのか。
 新宿駅の雑踏の中で、こうした姿を客観的に観照的に離れて眺めていたのは、あの何千人という人のなかで私一人だったかもしれない。私は自分がその「渦」に巻き込まれることを嫌って、鈍行でユックリタックリお茶の水駅に来た。
 この章は、前の連続二章の続篇である。
 新小岩で車から降り、范さんの事務所に逆もどりしたあの火曜日から、ちょうど一週間目、私はまたもや気がすすまず、勤めをサボッた。
 そしてーー何の感慨もない。雲が流れるように、テントウ虫が草の葉に這いあがるように、私は「自由」へ一歩踏み出しただけのことである。
 大して向学心もなく、社会の慣習に従って、または親にせき立てられて、私立大学にもぐり込み、要領よく卒業免状をもらおうとし適当に立廻り、毎日貴重な時間をムダに過ごしている学生たちは、今日も休講を大喜びでいることだろう。
 先生がいないと喜ぶ学生はその限りにおいて「自由」の讃美者である。正直であり。かれらの本心は勉強などしたくないのだ。真に学びたい意慾のある少数の学生は、ほうっておいても自分でどんどん研究を進めて行っている。
 出席を取って学生を束縛し、どんな寝ぼけまなこでもとにかく雁首を並べていれば単位をやる先生も先生だが、学校側の旧時代的「不自由教育法」に唯々として従っている学生も学生だ。
 私はとにかく、既成の制度と思想の上にもとずいた職場では働けない人間であるらしい。
 私が働きうる条件は次のごときものである。
 1 時間その他約束ごとで縛ることはできない。私は誓いごとができない。そのことを承知したうえで、かりの「約束」をさせるのは他人の勝手である。私も、できるだけ守りましょうと答えるだろう。そのときその人を悦ばすために。
 2 報酬のオカネの有無多少によって、私は縛られない。つまり、ただでもマイナスでも、気がむけば私はひとのために働くであろう。