AZ時代;リスト
 3 私の条件はつねに「自由価」である。あらゆる努力に対して、礼金はそちらにまかせますよと答えるほかない。范さんと会ったときのように、こころみにこちらがある条件を提示することがあったとしても、それは私の「本心」ではない。イエスの答えが出ようとノーと拒絶されようと、またイエスの場合その約束が履行されようとされまいと、私の心はすこしも動かないであろう。

 ハイヒールを欲しがっている妹に、安い店を紹介してやっても、だれもコミッションを要求しないであろう。
 「安く買えて嬉しいわ。兄さんにお礼しなくては・・・」
 「いんんだ、いいんだ」
 「でも浮いたお金で、なにか兄さんにおごりましょうよ」
 「そうかい、そりゃ嬉しいな」
 こういうことになっても、コーヒーなんてケチなものより百円のウナギを食べさせたらよかったのにと、のちのちまで妹を怨む兄がどこにいるか。
 私も、だんだんと、自己の本領に従って、人生の再調整をしなければならない。





 と思ってみる。私の生まれるより少し前に英国から出たオカルティズムの古い原書を、ひととき読んでいた。面白い、とても。“ある偉大な魂の印象記”という副題のついたこの本は、匿名の一「弟子」によって書かれた実話である。実名小説と反対に、実話でありながら固有名詞は全部伏せてある。著者名もかくしてある本などは、日本ではめったに見つからないものであるが、名声を挙げるという意味もなく、大いに印税を稼ごうという欲望もなく、三百八十頁をこす大部の本をコツコツと書いて、三十数年もたった今、極東の小さい国の男をこんなに強くひきつける書物の秘密はどこにあるのだろうか。
 現代は THE INITIATE、かりに私が訳せば、『魂のひらいた男』とでも名付けるか。いや本当にこの書物を訳すようになるかもしれない。私は『AZの金銭征服』のような本を書いていても、決して金儲けの専門家ではないのだから、数ヶ月間コッペパンと水だけの生活でも、不平一つ言わず、黙々と金にならぬ仕事に取っくむ性質を備えている。
 私はたしかに昏迷している。
 当惑している。
 自分で自分がつかめなくて途方に暮れている感じである。私という人間はなんという怪物であろう。人並以上の能力とエネルギーをもっていても、私は所詮一匹の人間にしかすぎないのに、私のなかにはどうしてもこのように沢山の傾向と素質と意欲が渦巻いているのであろう。
 私は商人であり、教師であり哲学者であり、ジャーナリストでありブローカーであり小説家であり、大まかであると同時にケチ、純真であるとともに狡猾、正直であるのと同程度にウソつきである。このような「怪物性」になやまされた経験が、あなたにもあったろうか?
 私のカメレオン性、怪物性はここ数年とめどもなく複雑怪奇になり、いったいつになったらこれが収まるのか見当もつかないのである。どんな人にもライフ・ワーク(一生の仕事)というのがあるはずである。またたいていの人が自分の道をみつけて、そこに安定と幸福を発見しているようだ。
 ところが、私の「道」は「無道」という道であるらしい。この無は無限大でもありゼロでもある。このように行動慾が多岐に走るということは、結局なにもやりたくないということに通じるような気が、しきりにする。
 金をもうけるか儲けないかという問題も、私にとって芥子粒ほどの重要性しかないような気がする。私が大金持になって巨億の金を動かすようになったとしても、私はすこしも満足しないだろうということが、今からハッキリ自分にわかるからである。
 私はいつも虚無感と背中合わせして生きている。ふと振り向くと、いつも背中にへばりついている奴がいる。そいつがキロリといった感じの目つきで私の思想や行動を頭のてっぺんから爪先まで、サッと見てとるのだ。
 この「虚無」がいつから私の心にすみついたかわからない。もしかすると、生まれたときからいや生まれる前から私の魂にへばりついていたのかもしれない。
 私のまわりに何千何万という鏡が立っている。どれもこれも、すこしずつ歪んでいる。私は狂乱の動作で、一つ一つの鏡を手にとってその中を凝視しては、これでもないこれでもないと、床に叩きつけてぶちこわしている。私は本当の自分の素顔をみたかったのである。
 足の踏み場もないほどに割れた鏡がそこらに散乱すると、もう私は期待するのをやめて、ただ物憂く、手当り次第に緩慢な動作で、付近に置かれた鏡を取り上げては、それを見ている。
 気がないこと、おびただしい。
 鏡たちー私の周囲の人たちは、入れかわり立ちかわり私のところにやってきて、それぞれ汗ばんだ手をしたり、目を血走らせたり、息をはずませたりして、何やら私にしゃべり立てる。静かにそのさまを見る。遠々しい観察である。私は瞳を動かすが、心は動かしていないようである。
 動かない心は、背中の「影」に気を取られているからである。「虚無」という名の影に。(一九五九.十二.一)





 ボディ・ビルだのマネー・ビルが、はやっている。しかし、マインド・ビル(心の鍛錬)をすすめる人はほとんどいないであろう。
 金が金を産むというのは資本主義の原則だということで、金のないやつにはどうせ何もできないさと諦めている人が多いが、“AZの金銭征服”の根本原理は、心が物を引きつけるということであるから、マインド・ビルはマネー・ビルより重視されねばならない。
 しかし、AZの方法は、日本の生長の家やアメリカのメンタル・サイエンスのような唯心論とはちがう。つまり「心の力」を利用するこれらの流派では、視覚化(visualization)という方法を用いて、手に入れたいと思う物が現に自分のものとなった図をマザマザと想像して、この心の魔術で物質を引きつけたり、理想を実現したりする。この方法はたしかにある程度効果がある。カーネギーやフォードのような富豪もこの「心の法則」を利用して、無一文からあれだけの大事業を築き上げた。だが、この城にいつまでも留まっていることは、その人の魂の成長にとってあまり益のあることではない。
 また生まれながらにして、念力的方向に人生を持ってゆこうとしても、うまくゆかないタイプの人々がいる。私もその一人だが、「心」よりももっと強力な存在である「魂」が、そのような思念力万能主義を悦ばないのである。したがって、猿真似をして、例のベストセラー『信念の魔術』に書いてあるようなことを実施しても、たいした効果は生まれないのである。
 だからと言って、悲観するには及ばない。念力のない人は、かえって恵まれているからである。念力というのはどこまでも自力であるから、頼るべき自力のない人は、必然的にもっと広々とした他力の世界に出られる。
 ひと口に言えば、力まずにしておのずからに百事が整う、大変重宝な調和的世界にめぐりあうのである。
AZの金銭征服
21.いささか昏迷気味かな
22.受けて立つ訓練