AZ時代;リスト
 信念の創化力という言葉はたいへんに美しいが、「信念」という語のうしろに潜んでいるエゴイズムのにおいを嗅ぎ取らない人は、まだ幼い魂の段階にあるのだ。
 ガリガリのエゴ亡者が「信念」をふりかざして、勝手に世界を掻きまわしたら、どういうことになるか。世の中から、信念などというおぞましい言葉が一掃できたら、世間の空気はどんなにかきれいになるだろう。
 私は信念などという器用なものは持ち合わさぬ。
 また、長い期間、一定の目標を心にもちつづけるというような執念ぶかい「意思力」も持っていない。すこしばかり持っていたものも、この数年間すこしずつゴミ箱に放り込むことにしているので、今の手持ちは非常にすくなくなっている。
 信念や意思はゼロの方が最上である。カラッポというのはキリのないことで、目がだんだん冴えてくると、自分のなかの微細なゴミの存在にも気づきだし、軟らかいリンネルの布で注意ぶかく拭い取るようになる。カラッポにすることは涯てしない作業である。
 心のゴミクタが取れてくると、外界の動きが心という「レンズ」を直通して、その奥の「魂」に触れ合うようになる。もちろん、これには長い長い日月を要する。しかし、素質により、心がけ次第で数ヶ月でも効果は見えてくるかもしれない。
 AZのマインド・ビルは、結局その奥のソール・ビル(魂の鍛練)に接続してくるのであるが、ソール・ビルになると、これはスブドという秀れた修練方法が与えられているので、詳しくは『AZのスブド』(AZシリーズ第四巻)を参照していただきたい。

 だれにもやれるマインド・ビル(AZ流の)を解説するのが、この章の目的であった。
 まず、受け身ということを練習するがよい。これは柔道をやったことのある人には極めて判りがいいと思うが、倒れるのをこわがると不必要に身体がこわばり、活殺自在の妙技を展開できないから、柔道では最初に、投げつけられたときの身体の置きかたを練習する。これを「受け身」と呼んでいる。
 私が言う「受け身訓練」は、もちろん心の世界の中での話である。稽古台は無限にころがっている。今この瞬間からできる。例をもって話そう。
 電話がかかってくる。相手は松田さんらしい。あなたが松田さんについて抱いているもろもろの既成観念が、連想という作用のもとに、むらむらと頭にあがってくる。これを雑念という。この雑念に気をとられていては、いま松田さんが“何をあなたに話したがっているか”、が明瞭にこちらの鏡(心)に映ってこない。
 とっさに心をカラにすることだ。身体中の雑音を消して、深山のまんなかで坐禅を組んだような感じで、シインと耳を澄ますのだ。最小限の応答をする。向こうの心の動きをデリケートに読みとる。完全な受け身である。
 流れは向こうからこちらに流れてくる。流しぱなしにするのだ。喰い止めてはならない。好悪の情や、自我からムラムラと出て来る考えをいっさい働かさないのである。押し殺すのではなく、根元でスイッチを切っておくのである。そのうち、向こうからの流れがとまる。完全に止まりきったその瞬間を、敏感にキャッチしなくてはならない。ちょうど、海岸に打ち寄せる波が、ひらりと波頭を返して元に引きあげるあの刹那である。このときをねらって、あなたはサッと切り返さなくてはならない。逆襲しろと言っているのではない。「それはすばらしい考えです」「OKです」と答えてもいいし、「そりゃ承知できないな」でもいいし、「じゃあ明日返事する」でもいい。とにかくマゴマゴするようでは、この勝負はあなたの負けだ。完全に自分をカラにし、完全に受け身で向こうの流れを身に受けていたら、当然その時いちばん良い考えが頭に浮かんでくるはずである。何も浮かんでこなかったら、沈黙していればいい。
 「・・・・・・」
 「どうしたい? 今日は元気ないな」
 「そうかい?」
 「いつものようじゃないぜ」
 「そうかな」
 受け身の訓練をすると、あなたはよい一層友人に好かれ、上司に信頼され、家族に愛されるようになる。これは実験ずみである。
 あなたが大事な手紙を今書いているとする。旨い文句がうかばない。イライラする(これはすでにあなたがマインド・ビルをやっていない証拠だが)。そのとたん、あなたの子供がバタバタと部屋にかけ込んでくる。
 「お父ちゃん、あれ買ってえ・・・」
 「うるさい! いま、お父さんは仕事中だ。向こうへ行ってなさいッ!」
 こんなことでは、家庭教育はゼロである。いやマイナスである。あなたの愛児は、父親そっくりのイライラ型に成人するであろう。
 サッと受け身に転じてごらんなさい。静かな目で坊やの顔をみつめて・・・。
 坊やの口のまわりにはキャラメルの汁がくっついている。どこで転んだのか、右脚の膝小僧は泥だらけだ。(小僧よくあばれているなあ) こう思ったとき、普通の親なら、自然とニッコリするはずである。
 「なんだい坊や?」
 「となりのミツちゃんがピストルを持っているの。ぼくも欲しいんだ」
 なに、この野郎、ピストルだなんて殺し道具をひねくって、将来出世できるかッ――とまさかそんなことは怒鳴りますまいが、似たような考えで、教育的にやろうと考え、
 「そもそもね、ピストルはねえ、いいオモチャじゃないんだよ。どうしてというとね・・・」などと断りの説教をはじめたら、
 「なんだ、つまんないの、お父ちゃんのケチンボウ!」
 「なになに、もう一度言ってみろ。そんな言葉づかい、どこで覚えたかッ! 隣りのミツちゃんか。よし、ミッちゃんなんかと二度と遊ぶな。ピチャッ」と、まちがって頭でも叩いたら、もう駄目だろう。ウェーンと泣き出して、さっきの手紙が書けないイライラは三倍も四倍もひどくなるわけだ。
 どんな行きづまりもクルリと変える秘法がある。それは「受け身」だ。百パーセントの「素直さ」である。
 今の例でも、愛児の汚れた顔をほんとうに静かに見れば、親の愛情がひたひたと湧いてくるはずであるし、なおも受け身の気持をつづけていれば、(ああおれも、小さいとき、丹下左膳のような刀が欲しいとダダをこねて、おやじに押入れに放りこまれたことがあったっけ)というような想いも湧き、お説教の代りに、手はひとりでにポケットに行き、何枚かの銅貨を(あればの話だが)取り出すであろう。こおどりして部屋を出てゆく坊やのうしろ姿をしばらく見ているうちに、心には愛情の暖かいともしびがホンノリとつき、先ほどのイライラは嘘のように消えてしまうであろう。
 気分一転、平和な心でまたレター・ペーパーに向かえば、こんどは奇蹟的にスラスラと思うことが筆にのってゆくのである。
 要するに先刻筆がつかえたのは、大人に特有の気取りやポーズや強がりが邪魔して、素直に心が流れ出さなかったからである。子供のもつ無邪気な雰囲気が、あなたを一瞬のうちに浄化したのは、ひとえにあなたの「受け身」の徳のゆえである。
 応用問題はいくつかある。しかし、また時を改めて語ることにしよう。




 一冊の本を書くのは長旅に似ている。
AZの金銭征服
22.四面楚歌の清水昭