AZ時代;リスト
 九州の涯てから丸一日かかって上京するのはなかなかホネだから、途中京都に寄って竜安寺のそばで一泊もすると、また元気が盛り返すようなものである。
 なにしろ私は前代未聞の方法で、この書物を全国の本屋に配布すると大見得を切った手前、原稿ができても資金がまとまらぬと、書いて書き損ということになるから、ずるい根性だがスピードをおとしたものらしい。
 そのあいだ、個人雑誌『AZ』の自由価出版をもくろみ、1959年末から稿を起こし、1960年1月に創刊号を500部刷ることができた。ところが例によって、産出力は出版能力を上廻り、原稿のほうはもう四冊目が終わろうとしている。これも大変面白い雑誌だから、『AZの金銭征服』の読者はぜひ毎号読んで下さい。
 というようなわけで、今日はもう二月の十二日。あすあさってとパ・スブー来朝一周年記念全国スブド大会があることになっている。地方から続々同胞が上京し、その接待にいとまなしである。大学の先生という暇な身分のおかげで、二月の半ばともなれば講義もなく、毎日がサンデーみたいなものである。あっちにヒョロヒョロ、こっちにヒョロヒョロと日を送っている。
 さて、AZの金銭征服理論の実験モルモット第一号である私自身のテスト・レポートはどうであろうか。

 私が顧問をしている貿易会社井上ブラザーズ・アンド・カンパニーのタイピスト村木さんが、
 「先生のご家族の写真がのっていましたよ」
 と『暮らしの手帳』二七号を持ってこられたのが、今机の上にのっかっている。昭和二十九年の発行だから、もう六年も昔のことだ。
 “ある日本人の暮らし”シリーズの五番目として、「十菱家の九人家族」という題のフォト・ストーリーがのっている。八ページもグラビヤ版をつかって実に詳しく当時の「わが家」を紹介している。この写真記事は案外沢山の人によまれていて、よく「ああ、あの十菱さんですか」と言われる。
 モデル料として、あのときは花森安治さんから一万円ぐらいはもらったろうか。全ストリップのモデル料としては安すぎるくらいのものだが、当時のわれわれとしては思わぬ収入でホクホクだった。
 この雑誌の八三頁に、「十菱一家の決算報告」というのがのっていて、
 麟さん月給手取り  一九,000円
 原稿料          二,000円
 敏子さん(母)筆耕   五,000円
 鶴子さん(妻)月給   五,000円
 珠樹さん(弟)から   六,000円
 〆めて三万七千円とあり、支出と借金を考えると、差引赤字八,九〇〇円也とゴチック活字でデカデカと出している。
 天下の恥さらしというわけで、岡山の叔父は勤務校の図書室にあったこの『暮らしの手帳』の全八ページをカミソリで切り取って棄てたそうである。
 世の人の恥とするところを、こうやって天下に公表するのは、よほど神経がにぶいか、露出症なのだろうと、多くの人は推察したかもしれない。
 わが一家はどういうものか、昔からマスコミに縁があるらしく、支那事変ごろ自由ケ丘で古本屋を母がやっていたとき、「女子大出のインテリ奥さんが古本屋で自活する」というテーマで、これも写真入りで『主婦の友』に出たことがある。
 くだってはこの一、二年、私が「冒険学校」というのをオッパジメたので、各社の新聞・雑誌・ラジオが私の顔や声を日本中に流し出した。ヘンなことで有名になって、この子はまあ!と保守的なオフクロは眉をしかめていたが、この『暮らしの手帳』の自発的スッパヌキを推進したのは外ならぬ私、首をかしげたのは母であった。妻はやさしくハイのひと言だったし、父は小説家のサガか、もともとお祭り騒ぎの好きなほうだ。
 それにしても、この六年、わが家は変われば変わったものである。父は小説稼業をサラリと捨て、エジプト渡来の占星学にウツツを抜かし(ゴメンナサイ)それがうまく時流にのり、ジャーナリズムにもてはやされ、『新潮』にも記事を書くようになった。父の部屋は洋酒の瓶がズラリと並び、家具調度申し分なき占星術師の応接室である。天宮図をにらみつつ、巨蟹宮は月の性質、ロマンチックな放浪性を豊かに持つのじゃとお託宣を垂れれば、高名の映画俳優がハハアッと首を下げる。
 かく申す私も、人生自在のコツを得て、世間を泳ぎまわること、河童もハダシの水練上手、私の名詞には九つの肩書がある。これは人呼んで「チンドン屋名詞」と言い、莫逆の友M君などは心配そうな顔をして、
 「これはキミ、損だよ。こんなの見せたら、山師かインチキの標本みたいなもので、だれもキミを信用しなくなるぜ、ヤメタマエ、ヤメタマエ、キミ」とおっしゃる。
 卒爾ながら、その名詞を左(*下)に披露する。
















 もちろん、上の肩書きの多くはあまりカネにならぬものが多く、たいていは奉仕に明け奉仕に暮れるたぐいの仕事であるが、あれやこれやの組合せで何となくオカネは廻る。すくなくとも、家庭の暮らし向きはずいぶんラクになった。
 スカートをはいた男として売り出した花森安治さんは、人も知る名文家で、六年前のリンサンを次のように紹介している。

 麟さんのモットーは無計画主義である。人間さきのことはわからぬのに、くよくよとチャチな計画を立ててみたってはじまらぬと信じている。そのモットーにのっとって、東大の学生の時、全収入二千百円(育英会資金)で平然と鶴子さんと結婚し、アメリカ留学の試験にパスしてオハイオ大学で一年勉強し、毎朝七時に家を出て、東京の反対側にある足立高校で英語を教え、そして夜は一家あげてインドネシア移住の夢をみているという次第でもある。

 不思議に六年前、約二千日、私のモットーはすこしも変わっていない。「人生無計画主義」は当時一人の共鳴者もなかったが、今では数百人の仲間がいる。この主義が今に日本中を風靡するのは、この主義が机上の空論でなく、生活的に証明されるからである。私一人がうまくゆくんじゃ
AZの金銭征服
株式会社英瑞カンパニー代表取締役
世界スブド同胞会ヘルパー
日本大学理工学部講師
A.R.E.日本支局代表
AZ世界友情協会会長
日本冒険学校校長
井上兄弟社顧問
AZ同胞会召使
宇宙協会顧問
                十 菱    麟
   電話 (421) 86xx 東京都世田谷区池尻町506