AZ時代;リスト
 客気も玄気もあるだろう。しかし、この生一本の生きかたには「不純」のにおいが少しもしない。無茶であろうが欺瞞はない。自信は過剰かもしれないが、ノイローゼには免疫であろう。
 毎月千円ずつ、“降給”される無能社員にとって、この清水社長は鬼のようにイヤな奴だろうが、私のような岡目八目派にはなかなかイカす人物に思える。裕次郎が世の寵児になっているのと同じメカニズムで、この男も当分実業界を押しまくってゆくであろう。
AZのリンサンが清水昭と相まみえる日も、それほど遠いことではないかもしれぬ。かれは私をジロリと見るだろうし、私もかれをキロリと見返すだろう。
 「だいたい、おれは“最低生活を保障しろ”なんていうケチなやつには興味がないんだ」
 こう言い放つ清水昭はたしかに腕にオボエがあるのだ。「最低生活を保障する」なんてことは露思わず、独力で人生を切り開いてきた男だ。「最低生活人種」は言葉の通じない異人種みたいなものだろう。
 そもそも、人間には「最低限」というものはないのである。人間には上も下も無限の世界がひらけているのだ。落ちればキリがない。「持たざるものはますます奪われるべし」と言ったのは、イエスじゃなかったか。
 しかし、清水昭個人は、満つれば盈(か)くるの諺どおり、今や実に危険な橋を渡ろうとしている。平清盛をかえりみなくても、エイヨウエイガの果ては決まりきっているし、位、人臣を極めても落ち行く先はわかっている。
 清水昭は自分のことだけでなく、子供のことも考えてやらなくてはならない。たとえ美田を残しても、子は一日にして貧窮のドン底に落ちるかもしれない。孫は生まれながらのカタワであるかもしれない。人生は厳しいものである。人を斬っても心で合掌しなければならない。首を斬ったことによって、その憐れな男女が発奮して立派な人間に生まれかわることを祈らなければならない。今日の人の身は、あすのわが身ということを考えねばならない。因果応報ということが、数千年前と同じく、現代も真実であることを悟らねばならない。
 清水昭のような「場」に立たされるということは、個人の魂の発展史において、そうたびたびとは訪れてこない重大なテストである。テストに失格することは易しい。針の穴をラクダが通るほどむずかしい試験だからだ。
 私も、そしてあなたも用意がととのえば、いつなんどき、このようなむずかしい課題を出されるかわからない。あすになれば、宝クジの一等賞金がころがり込むかもしれない。それなのに、宝クジが当ったばかりに、気が狂ったり人生を破滅させた例は数かぎりがない。
 用意をしていないからである。皆がみな、盲めっぽう走り出している。貴重な羅針盤をせっかく一台提供しても、そんなもの要るかとばかり、海中に叩き込んで船出するキャプテンが多すぎる。
 人生のすべての鍵は神がにぎっているのだからと説教すると、馬鹿を言えと反撥する。私は、よほど気をつけねばならない。ウカツな接近をすると、横面を張りとばされ、蹴り出されて、シオをまかれる。ワタシはアナタのためを思っているのですからと言うと、クソ坊主とかエセ牧師めとか怒鳴られる。全く手も足も出ない。
 神という言葉がどうも工合がわるいのである。私は、この刺戟多い言葉、誤解で泥まみれの言葉を使わずに、道を説かねばならない。ああ、道だなどというと、もうソッポを向く人が何万人もいる。
 やはり不言実行が最上の方策なのだろうか。理屈なしに、目にみえる形で「証拠」を見せねば人々は承知しないのではあるまいか。カネを追いまわさずとも、カネのほうから寄ってくるという「真理」を説いても、お伽話ぐらいにしか思われないだろう。
 やっぱり「見本」をみせねばならぬ。物も金も人も自由自在になるという人生模様を、私の周囲に描いてみせねばならない。他によいモデルがなければ、私自身が衣服をぬいでモデル台にたたなければならない。
 「金銭征服」のコツを乞食が説いても、だれがついて来るだろうか。





 留め金という言葉はうがって妙。
 オカネの循環を留めているのは、ケチという人間の性質である。ケチのままでいて、金銭征服など企てるのはオコがましいのにも程がある。このトメガネをはずせ。
 ところで、ケチとは何ぞやということが、世間の人にはわかっていない。そこで説明する。
 東京で金貸しをやりシコタマ儲け、郷里に帰ってみると、母校の小学校がひどく荒れ果てている。雨天体操場など、晴天でなければ使えない状態になっている。よし来た(ここまではよい)とばかり、ポンと百万円、補修費の一部にと寄付を申し出た。校長や村長以下みなの者が恐懼感激、謝意を表明するため一夕うたげを設けて、恩人を招くことにした。
 席上、校長が立って一場のスピーチをこころみる。
 「今般、本校の栄ある卒業生の一人であらせられる金集先生が、二十年ぶりにて故郷に錦を着て帰られまして、たまたま荒れ果てた本校の状態にお目を止め、その烈々たる愛校心・愛郷心からいさぎよく多額の金子を御寄付あらせられました」
 パチパチというわけで、金集氏はひそかに鼻の穴をふくらませた。鼻の穴を――これがケチである。
 右の手が施しをしても左の手はナンニモしらない、これが最上だとイエス・キリストもおっしゃったが、右の金集氏のごときは、鼻の穴一つで、たちまちケチの部類にテン落してしまった。
 その他、いろんなケチがある。
 人が借りにきても、どうせ掛け値だろうとということで、
 「ふうん、三千円か。そうだな、二千円ぐらいなら廻してもいい金があるが・・・」
 と値切ってみないと男がスタルと考えている人もいる。こういうのは見えすいたケチである。
 その他、わかりにくい偽装的ケチは沢山ある。報いや評判を期待したり、与えるときの優越的自己満足などから行動する連中は、みなケチである。だから、人からあいつは実に気前がいい、と評される人だって、正体は物凄いケチだという場合もたくさんある。
 それから精神的ケチがある。これは物質的ケチと同等か、あるいはもっと下等である。
 たとえば自分の信奉する主義・思想がちょっとでも攻撃されると、烈火のように怒り出す人はケチである。心にゆとりがないから。いろいろ面倒を見てやった後輩が、いつのまにか敵方に廻ってこちらの秘密をバラした。あの野郎ッと腹立てたら、その人もだいぶケチである。
 飛燕のごとく敏捷に汽車にとびこんだら、ひと足ちがいで別の男に席をうばわれた。舌打ちが出るようじゃ、やはりケチである。粒々辛苦十日も寝ないでやっと仕上げた傑作小説の原稿に、三才の長男がお茶をひっくり返した。ここでわめく小説家はケチである。恋文を1ダース、毎日つづけて送った先が、なんだ人妻かと判った落胆――これがまたケチである。
 ケチの陳列会は品沢山である。泥棒だアという声にあわてて、ボックスから飛び出したお巡りさん、犯人はと見ると、探偵ごっこで夢中の子供たち――プリプリするのはケチである。
 これでは、全く、ケチ・カルタでも作って売り出せそうだな。
 電話をかける。ひと言、自分の名前を言えばいいのに、聞かれるまで黙っている。これは気の利かぬケチ――奉仕精神ゼロ。また、相手も、いそがしいのに何だアイツと、電話を切ってからも五、六分ムクレているのも、劣らずケチだ。
 私もくたびれた。ここらで“ケチの公理”を並べて、とどめを刺す。
AZの金銭征服
25.ケチという留め金をはずせ