AZの金銭征服
これは値切る問題とは別のようであるが、本質的には同じことだ。つまり、人を相手にして値切るなということは、天を相手にして値切るなということと同義である。
木茂野氏の例などは、避くべからざる運命の要素が入っている。一日の差で、木茂野氏は数十万円損をしたのであるが、天を相手にこの損をどうにかしろと力んでもしかたがない。
実をいうと、小豆相場でポコッと百万円もうけようと、株を売りそこなって一千万円損をしようとあなたはソンもトクもしていないのである。
この理屈がわからないと、あなたは永遠に金銭地獄から抜け出すことはできない。オカネの顔色をうかがって一生ペコペコ暮らさなければいけなくなる。
あなたの意識を創り変えるために、まず「もうおれは値切らぬ」ということに決めて、小さいところから修練してみたらどうか。
十円や二十円、百円や二百円、千円や二千円、値切ってみたところで仕様がない。全くそうじゃないか!
私はまえに暗闇でタクシーから降り、百円札と思って五百円札をまちがって渡したことがあった。外から硝子を叩けば止めることができるのに、私は気がついたまま、運転手の横顔をみていた。相手の表情は複雑だった。かれも私とほとんど同時に「まちがい」に気づいたのである。しかし、そのままホオカブリしちまえという気持のほうが、六分四分、ちょっと多かったように見えた――相手の気持が一瞬にいろいろと私の目に映ってきた。
私は見逃してしまったのである。
なにげなく友だちと談笑して、その場を去った私は、なにかを考えていたようである。
「五百円を欲しがっている人間がいる。欲しいならやりゃいいではないか。なにを、わざわざ汗かいて取りもどす必要があろう。あの五百円札はきっと運ちゃんのほうに行きたがっているんだ。また、運ちゃんも今日は特別に金のいる事情があるんだろう。私は…私も、きっと前世にでも、あの運ちゃんから小銭を巻きあげたか何かして、借りができていたんだろう。ヨシヨシ…」
そして、私はこの問題を解決した。
自分も他人もなくなると、損得の感情が(勘定)が薄くなる。そのうち、現実界にも損得のない世界が出現してくる。
損得がないというのは、プラス・マイナス・ゼロ、現状維持ということではない。ソロバン頭ではそうなるが、人生はそんなケチなものではない。私は生きた世界のすがたを語っているのである。
損得がなくなるということは、現実に、束縛と不自由と争闘の世界から、あなたが一段と浮かび上がって、常時豊かな、目のさめる楽園が周囲に展開してくることである。
これをぜひ体験してもらいたい。だれもで体験できることなのである。 (一九六〇.四.二)
この書物は全くイキが長い。いつ仕上るとも、著者自身ぜんぜん見当がつかず、人生の曲がり目まがりめにチョチョコ筆を取って書きつづけている。
「金銭征服」なんてテーマはもう私の人生に古くなっているから、なるたけ早くこの本を片づけてしまいたい。そう思いつつも、まだ終点が来ていないらしいので、思い出しては一歩二歩と進んでいる。
本の書きかたと、人生の生きかたと、私にとって二者は全くの一枚である。人生設計というものがおおむね馬鹿らしいのだから、著作の設計など話にならぬ。首尾一貫という世間の徳は、AZの探照燈にあたると、チャチな正体を暴露してしまう。
なんでも首尾一貫している(ように見える)と、たいていの人は安心するが、その本音をさぐると、人間はだいたい「混沌」という怪物がこわいらしい。「不合理」という化物のツラを見たくないのである。
金銭の欠乏に悩む人はみなこの不安の餌食になっている。なにか確固たるものにすがりたい。なにか頼りになるものを見つけたい。この願いに鞭うたれて、貧苦が一匹の鬼のように目の前に立ちはだかってくる。
そして、この欠乏感からのがれたい一心で、毎日毎日悪あがきをしているうちに、その身はますます深い欠乏の泥沼にはまり込んでしまう。
乏しいものはますます奪われると、無慈悲な警告を発した人は二千年前のキリストであった。これは同じ真理を裏返しにしただけのことだ。
「金銭征服」というテーマが私の心のなかでもうカビが生えているというのは、もう「征服」というような気持が全く私の心から抜けてしまったからである。
貧しいものをどうひねくり廻してみても、百万長者が出来上るはずがない。私はもう貧しい者を相手にしてはいけないのだ。
富とは物質がスルスルと流れている状態である。決して単に蓄積のことと思ってはならない。たえず何の渋滞もなく、モノやカネが自由に動いていればよいのだ。
「このごろ少し不自由しておりまして…」
自分で自分を知っている名文句である。モノやカネに不自由しているのは、心が自由を失っていることである。
富とはツカムコトだと思いこんでいる人には、未来永劫貧乏神がつきまとう。これはまちがいなしである。掴んだら最後、貧乏神が待ってましたとばかりあなたに取りついてしまう。
掴む心をすてて放つ心になりなさい。釣った魚も、用がなければすぐ離してやるがよい。魚はよろこんで逃げて行く。あなたの心も魚の背中に乗って大海に出てゆくだろう。
「だってリンサン、今なんにもないのに何をいったい放せるって言うんですか?」
なんにもない? 馬鹿を言ってはいけない。あなたは幾らだって放すものがあるはずだ。放すというのは、なにも乞食に五円やったり、赤い羽根を一枚買ったりすることだけではない。
放つというのは与えるということだ。与えるのはモノやオカネとは決まっていない。社会事業に一千万円ぐらい出したって、これはケチなものだ。何も誇るに当らないし、うらやむにも値いしない。
あなたの一番大切なものを与えなさい。それは何かというと、あなたの「いのち」だ。いのちほど与えるのに渋るものはない。しかし、いのちは施して減るということがない。むしろ、与えれば与えるほど、何十倍、何百倍になってもどってくるものだ。
自分の生命の豊かさにめざめた人は自分が宇宙の生命につながっていることを認めた人だ。かれはもう、毎日与えるのに忙しくてたまらなくなるだろう。何を、どれから先に、与えたらよいのか、自分のなかにこみ上げてくるものの豊かさに嬉しい悲鳴をあげるほどであろう。
なにをしてても毎日が嬉しくて仕様がない――そういう人は人生の勝利者だ。世界中が手に入っているのだから、何も今さらアガキ廻って、モノを追いもとめたり、地位をねらったりする必要がない。欠乏感がないから、トリコミ人生を廃業して、やる・与えるの連続だ。
満員バスのなかでハンカチを落とした婆さんに、サッと身をかがめて拾ってやる。そういうことだって、富者の立派な証拠なんですよ。疲れてるんだから、忙しいんだから、それどころじゃないんだからと、ブツクサ言う奴はかわいそう。
この章を書き出したのはどの場所にいた時だろう。一九六〇年六月の末ごろから、私はアメリカの技術者について仕事の旅行に出た。東京、前橋、日光、新潟、京都、奈良、大阪、鳥取と各地を廻り、今日はもう七月のミソカである。いる所は、山陰米子市の景勝の地、海辺に展開した皆生温泉の「湯の浜旅館」である。
27.巻きもどしをしない人生