29.歴史を創る
AZ時代;リスト
AZの金銭征服
 AZは一つの歴史である。
 私は歴史の創造者であると同時に、その記述者である。どうにも忙しいことだ。
 キリストや釈迦やソクラテスや、それから孔子のように、自分では本を書かずに、記録もせずに、言いたいことを言い、やりたいことをやって、生きた跡の整理を後人に任せるのは、たしかに一流中の一流人物のすることである。
 悲しいことに、私はまだ一流中の二流人であるらしい。生きて、それをせわしく傍らで記録している。一人二役。所詮、私は書く人である。
 書くのは私にとって「宿命」のようであるが、それを私はさして苦にもしていないらしい。もうそれはオートメ化してしまった。私は考えないでものを書くようになり、プランも構想もすでに遠い昔の夢となった。参考書も辞書もいらず、原稿紙一〆とインク壺一個、それからペンを胸にどこにでもヒョウゼンと出かけて腰をおろせば、天地万物おのずからに融解してイリジュウムの先を伝う一条の線となる。    
 この本を書き出したのは、1959年10月15日東京世田谷の私邸であった。今日はもう翌年の8月14日、所は箱根早雲山のふもと「ホテル早雲」の一室。
 この月の9日に私は名古屋から東京に帰り、ちょっとゴタついていた私の会社英瑞カンパニーで、社内会議の行司役をやり、すぐまた箱根に飛んで、もう終点に近づいた日本生産性本部の仕事のシメククリをする。これはたしかに仕事なのだが、私のような人生の受取りかたをしている男には、仕事は遊び、遊びは仕事で、何をするにも気骨の折れることはない。
 夕方6時から、米人コンサルタント歓送の大宴会をやるということ。私はどうせ、お偉がたの名演説を一言一句丹念に英語に直す役を仰せつかり、他の連中が羽根を伸ばすドンチャン騒ぎのなかでも「仕事」にかまけるであろう。
 しかし、私にとって、仕事は遊び、遊びは仕事、遊びながらオカネが入ってくりゃ、これほど太平楽なことはない。

 この本を書いているまに、子供が一人ふえ、日本大学は辞め、妻がもう一人ふえ(!)、その他いろいろ予想外の事件がおこった。オカネを追いかけ回さなくなってから、日も久しく、この頃の私はもう仕事をするまいと思っている。仕事はしない。遊ぶんだ。遊ぶだけ。
 遊んでメシが喰くえりゃ、こんな有難いことはないから、ネコもシャクシも私リンサンの真似をしたがるであろう。それもいい、大いにマネをしてくれたまえ。
 私はAZの遊び人、天下のグウタラ坊主である。遊んでおっても人から文句は言われず、また喰うだけのものがついて廻ってくれれば、居ながらにしてパラダイスにいるようなものだ。
 地球という住みにくい星も、なかに住んでいるわれわれの根性さえ変わってくれば、そのうちに金星や土星なみのすばらしい社会に進化するであろう。
 根本は人だ。人間が変化することだ。
 社会を変えなくてはなどと、世迷いごとを言うのはやめたまえ。自分を変えれば、オートマティックに社会は変わってしまうのだから。

 歴史を創っているという実感は、選ばれた少数者の特権であるが、実をいうと、この特権は伝染性のものである。
 AZはだいたいビールスのようなもので、一旦この菌があなたの鼻孔に舞いこめば、そこでどんどん増殖し、気のつかぬうちにあなたの全身がAZ化してしまっている。
 いまの所、私だけがAZの温泉に入って、ひとりでヌクヌクしているが、この果報はそのうち万人のものになる。なぜなら、それはイキモノの成長を促すから。だれでもも胸に宿る、あるイキモノがAZのこやしを受けてスクスク育ちだすんだから。
 別のたとえで言うならば、AZの一撃は、無数の精虫の発射である。読者は社会という子宮のなかにある卵子群である――失礼ながら。目にみえぬ秘密の奥処で、受胎がおこなわれる。胎児が育って腹をふくらませ、オギャアとなるまで、或る期間が必要だ。
 人間の肉体なら十カ月かそこらで一応形は整うが、魂の胎児は人さまざま気まぐれで、十年もたってようやくにオギャアッと来るかもしれぬ。
 AZに即効性を期待する人はダメですよ。
 気長に構えなさい。そして養分がおいしいうちは、思う存分ノミクイすることだ。そのうち咽喉につかえる時がくるかもしれない。今のうち、うんとこさ胃袋に入れておくことだ。

 生長の家の教祖谷口雅春氏は、コトバの力をうんぬんして、くり返し自分の本をよめ、出る本・雑誌は次々とみんな買ってこれをよめと、購買心をそそるのを常としたが、私のは違う。
 私は言う。「読んだら最後オシマイだ!」と。
 当今流行の「ヒザ遊び」ではないけれど、うっかり気をゆるしてヒザをあけたら最後、ポンと一発! 目のくらむ速度でAZの精虫は君の子宮の中に躍りこむ。あわてても、暴れても、私の顔を引っかいてもモウ駄目だと、早く観念したがよい。

 AZは歴史を創る。私だけの歴史ではない。皆さんひとりびとりの歴史が、AZ光線の放射とともに始まる。
 あなたは知らずして、歴史の創り人となる。





 ぽっかりと目が覚める。
 その時いちばんやりたいことをやる。終戦記念日のその朝は、湯に入るということだった。だれもいない浴場で心静かに湯にひたる。故障も直ってトクトクと、白濁した硫黄泉が流れつづける。頭がかゆい。そのかゆさをお湯に流して部屋にもどる。書こうかなと思う。同室の友はビールが利いてグッスリと眠っている。それをおこすまいと、紙、ペン、ピース一箱、ふらりと廊下に出る。
 温泉旅館の応接間、ふかぶかしたソファに腰をすえて書き出すと、ボンボンボンと朝の三時。
 思えば、この一冊はあちらこちらからいかにも温泉に縁の深い書物である。金銭自由の秘訣を語る本であれば、やはりこうした環境は必要であろう。裏長屋の破れだたみで、蚊に喰われたふくらはぎをボリボリやりながらの御執筆では、なんとも心もとなかろう。
 箱根も強羅の、そのまた奥では、夜の三時に物の音、ことのほか静まりかえって、螢光灯の音と柱時計の鼓動ばかりがペンのかすれる音に合いの手を入れる。
 貧乏文士の子と生まれ、借家暮らしに米塩の資もとだえ勝ち、頑是ない幼児期から小学校三年ごろまで、ジプシー生活そのままに東京杉並から目黒区に転々としたあの十数年。
 第二次大戦の窮乏に、ヌカのホットケーキで飢えをいやしたのは、まあ人並のことながら、戦終えては横浜の、橋のたもとで扇子を売ったおぼえもある。
 大学の卒業ごろには、もう一児をかかえ、高校教師の数年間には“しんせい”1本吸うにも事欠く貧乏生活だった。バラック一間に大家族のひしめき合う貧困の底から、1952年夏突然に私をひっさらってNWA、遠くシカゴに私を飛ばしたのは、何もかも先刻ご承知の、神さま取っておきのボーナス

30.宴も果てて朝三時