AZ時代;リスト
AZの金銭征服
でもあったのか。一年間はアメリカの栄耀栄華の生活に、うつつを抜かして帰ってみれば、故国は相変わらずの、物も心も乏しい同胞の生活。
 高校の同僚女教師に慕われて、三角関係という地獄の責苦にさいなまれながら、私は書を読み冥想に沈んで人生の真理を究めようと焦った。
 スブドにふれた1954年。霊の旋風は私をふたたび受難の生活に追いやった。救世の情熱は私を駆って世に背かしめ、家財を投じての宗教運動は、そのとどのつまり精神病院に三ヶ月幽閉される憂き目となった。
 数年と一ヶ所に続かぬ職業生活、子供も二人とふえ三人と増した。神さまは大学の先生という職業も私にやらしたかったらしい。高い講壇からスピーカー片手に偉そうなこともしゃべらした。
 日大の講師となったそのころから、私は株式会社の経営などにも手を染め、手形の決済にあたまを悩まし、女の子の給料がつまっては百科辞典を質においたり、会社々長の肩書が泣くほどの文無しで、銀座の町を十円玉ひとつで歩いたりした。
 すべてはうたかたの如く、淡く白く、ひと夜の夢である。かりそめの夢に、泣いたり叫んだりしながら、私の魂は鍛えられ浄められ、日ましに成長して行った。
 やがて1959年の暮、私は個人雑誌『AZ』の発刊に乗出し、新しい年が明ける。蓋をあけると、この眇たる一小冊子が、毎月不思議なほど同志を獲得するようになった。
 私が裸身をさらけ出してのアクロバットは、たしかに人々の心をつかんだらしい。雑誌は伸び、これを書いている今ごろでは、全国にいつのまにか700人の同志が出来た。私はこれを呼んでAZ同胞と名づける。
 これは新興宗教でもないらしく、教祖と自称してみてもどうもシックリとは来ぬ。現代のことばでは、どれを使ってみても、この団体の性格と、立場を説明するものがないらしい。
 新しいモラルの創造者――私の役目はこんなものでもあるらしい。しかし、私は単に人の道を説く「教師」ではない。
 私はコウシロアアシロの束縛をかなぐりすてて、われも人もなるべく自由に、一切の拘束をすてようと叫んでいるのであるから、私の仕事はモラルそのものの否定である。
 私の書くものは紙の弾丸、人の心に喰い入り、突きささって、その人の生活を変える。それはダイナミックであり、時として破壊性を帯びる。
 自己満足の人を見れば、私は鉄槌をふりかぶって、脳天に一撃をくらわしたくなる。ソッとして上げればいいのにと呟く人もいるが、人を惰眠から呼びさますのは、これも私の仕事の一つであるらしい。
 目をさませ、目をさませ! AZは現代の警鐘のようでもある。何だか知らぬが目をさませ。眠っていてはいけないようだ。深夜に起きて鐘を鳴らしている。
 いったい何者なのか、この私は?
 なにを好きこのんで、夜中の三時にペンを取ったりするのか?
 私の人生はどこに行くのか?

 乏しさのなかで人となった私は、とりわけ貧しさに敏感であるようだ。自分自身の貧しさが解決しても、残る千万人の貧しさに目を閉じてはいられない。物質の繋縛から自分ひとり自由になっても、それが何なのだ!
 自動車をのり廻し、便所は水洗にし、カラーテレビを買い、会う人ごとに生ビールをおごっても、それが何なのだ!
 よしんば巨額の富を身に帯し、世界中の孤児院や養老院に、ロックフェラーなみの寄付をしたって、それが一体何なのさ。
 私が到富の秘密を手に入れて、一代の富豪になったって、私を見上げる大衆は、ただアレヨアレヨと言うばかりであろう。アレヨアレヨではどうにもならぬ。
 アレヨアレヨのそのもとが、私の仕事であり使命である。どうせアレヨアレヨを言うならば、私ではない、君たちのジカの人生でそのアレヨアレヨをやってもらいたい。
 私は放っておいても変わるのだから、変わりそうにないあなたがたの、仮眠と麻痺の人生を、アッというまに変えてみたい。私は人を喜ばしてやっと自分もよろこぶタイプなのだ。
 せっかくの一冊の本を書いても、眠る暇を盗んでこれを書いても、世間が馬耳東風だったらこれは仕様がないな。望みを小さくすれば、私が宙返りをしたおかげで、もう一匹、ただのもう一匹私に似た男が世に躍り出して、私と同じ仕事をやってくれればいい。
 私が死んだその先であるならば、彼は私の後継者となろう。息がまだつづいているあいだならば、彼は私の協力者となろう。ただの一匹でもいい。一匹でも出来上がれば大したものだ。

 私が指さす道は、人間自由の一本道。坦々とした天下の大道だ。
 貧苦もなければ病苦もない。本然の人間、ありのままの人間、ありのままの全てが成就している人間。そのままであって、そのままでない人間。今のあなたをぶち殺して、死んでも死なないあなた。ほどけた人、覚者。私の示すものは簡単至極だ。
 それを手に入れるのに一銭も要らぬ。
 握ってみれば、天下宇宙が手に入る。居ながらにして天地の主人公になる。その道!
 金銭征服はその一つの門にしかすぎなかった。そのうちオカネなどいらない世界がひらけてくる。オカネ、オカネと言いくらす、そんなケチな人間じゃあるまい。





 私はオープン、あからさまである。
 この男、秘密があるらしい。こいつに喰いついていれば、なんとかなるらしい。そう思わせただけで、この本は成功である。
 あからさまなのに秘密がある。いやあるらしい。ここが曲者である。
 判ったと思うのがウソ。
 わからぬと思ったのが、判ったのである。
 私はいつでもオープンであるから、いつでも喰い下がってくればいいのである。くいつかれて逃げ惑う男ではない。
 この本を読んだ人は、それっきり私を忘れてしまうべきではない。これをチャンスに、私と一生の交わりを結ぶべきだ。こんな宝庫を放っておくという手はない。もったいない限りだ。
 人生がわからぬと同じくらい、私という人間はわからないであろう。そこが面白い。私は人生と一体になっているからだ。密接不離というやつさ。
 叩けばホコリの出るカラダ。だから叩くのだ。私から出たホコリは滋養になる。叩かねば損だ。
 私は「この道を行けば、おそらく大丈夫でしょう」などといいかげんなことを言っているのじゃない。口はばったいが、私が道だ。私にぶつかれ、私が道だと言っているのである。
 「私が道だ」などと宣伝することは、よほどのことだと、君は思うかもしれない。ところが、そうじゃない。君が道だということぐらい易しいことはない。私は太郎だ、アタシは花子よというのと同じくらい易しい。
 すべての人間がそのまま「道」なのである。どこかよそを探し廻って見つけるわけではない。探すのをやめた所に、道はあるのである。
31.私はオープン