AZ時代;リスト
AZの金銭征服
 だから端的に、私が道だとこれを示す。これが最大の親切であり、最上の奉仕である。これ以上、いたれる尽くせりのことはない。
 私はそろそろアクビをしている。眠いのである。遊びにも飽きたらしい。AZ遊びをやめて、すこし眠ったほうがいいのかと思う。ニワトリはもう一しきり鳴いたあとだ。私のペンの神さまがもうよろしと言ったが早いか、私は「五十鈴の間」に直行して、ふとんをかぶって寝てしまうだろう。(この章は前章の続きである)
 私は寝ていてもよし、起きていてもよい。書いていてもいいし、ブラブラしていてもいい。この気楽さから真理が生まれてくる。生命の波にふらふらと、わが身を浮かべていてこそ、大事業が出来る。気ばっていては何もできない。AZは気ばらぬコツを教える。

 とか何とか、そのまま私はこの原稿を書きさしにして東京へ帰り、もう半月も経った。八月も末である。こんな無責任な本を読まされていて、読者は“金銭征服”のコツを掴めるのかしら。そうね、つかめるのでしょう。
 そうね、ナニナニでしょう――私はすべて確約をしない。ただ、おおかた、である。こんな頼りのない先生はいない。益田金六さんのような人なら、手取り足取り、蓄財の秘訣を教えてくれる。ほかにも金儲けや事業経営のコツを教えてくれる人も、世間には沢山いる。しかし、この本の著者は何も教えてくれない。
 教えるって言ったって、人生に何も教えることはないじゃないか。人生はただ生きるだけのことだ。AZは呼吸を教える。いやとんでもない、呼吸を伝える。教えられるものでないから、伝える。銅線なら伝わるが、アルミ線なら電気も伝わらない。私の本は読者次第である。だから、この本の価値は掘り出す人の「良導性」如何による。
 あるエニシで、ちょうどこの本は物凄い触発力を発揮する。原子爆弾のボタンのごときものである。連鎖反応はあなたの人生のドマンナカでおこる。私がオープンということは、あなたもオープンになりうるということである。なぜなら二人とも人間だから――。
 オープン同士で、どうだ、命がけの正面衝突をやらぬか。やろうじゃないか。




 転石に苔はつかない、という西洋の諺がある。
 ゴロゴロころがっていればコケがつくひまがないのである。ところが、その解釈が二つある。一つは苔の味方をした考え、他は石の立場になった解釈である。公平に紹介してみよう。
 (1)苔本位 苔はいいものである。たとえば社会的地位・名誉・資産のようなものだ。苔はウンとつけばつくほど良い。苔本位に考えると、石はなるたけゴロゴロせず静かにしているがいい。石さえジッとしていれば、苔はどんどんつく。待てば海路の日和とやら。
 (2)石本位 苔など気持ちわるい。いつもスベスベの肌でいたい。ツルツルとしたそのなめらかさ。暇があればころがっている。一刻も同じ位置にいない。いきいきした暮し。十年ころがる、百年ころがる、千年ころがる――だんだん丸みが出る。そのまろみの素晴らしさ。

 言うまでもなく、私の生きかたは石本位のタイプである。苔を恥辱と思っている。身軽でスッパダカで、のびのび外気に当たりたいと考えている。
 だから、AZの金銭征服はオカネの「蓄積」ではない。オカネをコロコロ、コロコロと使いこなす腕の養成である。またその腕があれば、オカネのほうで舞い込んでくるという真理の実地検証である。
 この章を書いているおのは、1960年の9月12日である。この本のスタートから11ヶ月経っている。そのあいだ、私の本心はだんだん図太く正体をあらわしてきた。
 この本の出版の仕方という一つの問題についても、私の考えはショッチュウくるくると、反転してきた。これはサイコロ振りと同じだ。最後に丁か半かと来る。途中の壺のなかで丁が13回出たところで、最後が半なら、丁は全部帳消しだ。チョウはチョウ消し――うまいしゃれではないか。
 私は今日酒井弘司という人物と話をした。かれはサカイ・ブックスという出版社の社長である。私はこの人物が将来大物になると思っている。それで、及ばずながら、かれの事業を伸ばす手助けをしたいと念じている。そこで切り出した。
 「AZの金銭征服」という本をオタクで出さないか。ほんとは、タダで日本中バラまきたい本なんだが、私に百万円ほどの遊び金が出来るまで机の中にしまいこむのももったいないから、キミの所で出したらいいと思うんだ」
 「定価はどんなふうにつけてもいいんですか?」と酒井社長。
 「いいよ、君がもうかると思うだけ、ウンと高く値をつけていいんだ。内容は凄いんだから、みんなが飛びつくに決まっているよ。売れたなかから、一割印税をくれれば、あとの利益はみんなカッパじゃない、サカイ・ブックス行きだ。大いに太ってくれたまえ。そして、いい本をドンドン出してもらいたい」
 OK承知ということで、酒井弘司氏は手を打った。最初は五百か千部しか売れないだろうが、あとはウナギのようにどんどん売れるという見通しで、初版の定価は400円ということになった。
 これは私がAZと自由価とのあいだのツナを叩き切ったということなのだ。そこがまた、自由のいいとこじゃないか。反転、再転、再々転である。
 私が百万長者になるスピードより、一冊の本が書けてしまうスピードのほうがずっと上らしい。残念ながら! 何度も言ったように、私は金儲けに恒久的情熱を寄せられないタチだから、金を集めるヒマがあったら、本を書いている。
 だから、私でなく、AZの読者の一人に、億万長者が出て、この本を一万部ぐらい私費で刷るという侠気を出してくれてもいいんだ。私の本には著作権がない。オープンだ。公衆に開放だ。印税をくれるというならもらっておいてもいい。いやならビタ一文出さんでもいい。勝手に料理すりゃいいのだ。

 私の著述の目的は、AZという旗のもとで、あなたと握手をすることだ。金もうけじゃない。一生の交りを結ぶためだ。男なら義兄弟のちぎり、女なら枕を交わしてもいい。とにかく、人間として深くなりうるトコトンまでキミとボク、オマエとオレ、アナタとワタシと結びたいのだ。
 なぜ? 私の豊かさがこぼれるからだ。受取ってもらいたいからだ。私がスポンサーをしている「饗宴」には御馳走が山盛りで、沢山食いにこないと、残飯が出来すぎてもったいないからだ。
 この本はいろんな形式・経路であなたのデスクに配達される。サカイ・ブックス必ずしも、唯一のルートではない。だから、この章も容易に反転して、ゼロ、金否定になるかもしれない。
 〔サカイ・ブックス社は結局資金不足でマゴマゴしていたら、老舗の霞ヶ関書房の進歩的社長岡本正一氏が、私と対決して、この本をさらって行ったテンマツは、6章にある――後記〕




 また逢う日までである。
 AZの単行本は、たいてい32章か33章で終る。縁起をかついでいるうちに、何となくそんなことになってしまった。
 実は32章で終りのつもりでいたのだが、まだ読者のみなさんにサヨナラを申し上げていないことに気がついた。そこで追加もう一章。
 
32.反転反転また反転
33.皆さんサヨナラ