犬はいつでもワンと言う

猫はいつでもニャンと言う

  犬もたまにはニャンと言え

  猫もたまにはワンと言え
1 人生流動
 人生流転というと何かヤルセない気分になり、映画『浮雲』などを思い浮かべてしまう。しかし、リンサンが言うのは別だ。ここには全然アキラメとかアナタマカセ、ああ無情とか無常とか、西行芭蕉のワビだのサビだの、過去三千年の日本的生き方のカスやオリはございません。
 AZの生き方はすべての積極人、大久保彦左や一休和尚とつながってくるが、行いすました吉田松陰や従容として明治維新の犠牲になった西郷隆盛などとはつながらない。
 もちろん一個の人間は大変複雑な代物で、一言にしてこれはAZ的あれは非AZ的と割切れないが、AZの分析などして、学者先生のようにモタモタしていては話がすすまないし、この書物を150円で買った人々に申し訳ない。本を買うというのは一種の投資で,投資したからには早くモトを取らないと損だ。この本を古本屋に売るのじゃ大した額にもならないが、まずこの書物の目次をサッと見て、おもしろそうな所、分かりそうな所から先に読んで、読んだらすぐさま実行して、たちまちそれだけの効果をあげることだ。
 病気を治すもよし。
 恋人のハートを射抜くもよし。
 オカネをもうけるのもよし。
 学位を取るのもよし。
 志望校に入学するもよし。 
 仇敵に一矢むくいるもよし。
 タナのネズミを追い払うもよしだ。
 人間百人百様、その志すところは千種千様、志の実現の方法と来たら万種万様である。
 こういう複雑怪奇な人生の渦にまきこまれて暮しているわれわれは、まず人生流動ということを悟ってかからないと諸事万事つまずく。
 人生万事というのだから「わたくし」という存在だって一瞬といえども固定していない。それを固定している立派な存在、銅像のように見立てるから、人から軽蔑されたと思い、人からフミツケにされたといって目に角立てる。呆れたことだ。
 いいですか、あなたは一秒一秒、死んでは生き、死んでは生きしている。一秒前の「あなた」は今の「あなた」ではない。無数の私が毎秒、夜空のネオンのように点滅している。この書物の著者はもちろん、今言ったような思想が世界的にえらい哲学者や宗教家によって難しい言葉で語られているのを知っているし、それは何それという本の何ページにあると指摘することもできるが、リンサン本来そのような権威主義・事大主義(大に事える、エライものにペコペコする生き方)に反抗するために生まれてきたのだから、スッポンに噛みつかれたってそんな真似はしたくない。もっとも平俗な、そこらのアンチャン(リンサンもその一人)が使っている言葉を使ったって、人生の真実、裸の真理を説けるという自信があるからこそ、こうしたトニー・谷的文章をつづっている。まことにオコンバンワである。
 さあ、この「我」の非実在、断続性というのがのみこめると、自分の立場がなくなってくる。随時その時その場その人に応じて任意の立場がとれる。したがって自由自在である。引っかかりようがなくすきだらけであるから、勝敗をこえている。昨日勝ち、今日負けたからシャクだとも思わない。昨日勝ったのは太郎さんで今日負けたのは次郎さんだーーーそういうふうに勝手に「私」に名をつけたらいい。いつもいつも同じ「私」だと思い、われこそはと力み返り、オレがオレがと執着するから何かとシャクにさわる。人に親切にするという気持ちなどこれっぱかしもなくなる。ひとはひと、おれはおれ、おれはひとの世話なんかしないが、一方おれがどんなに落ちぶれてもビタ一文人の世話にならぬぞとがんばる頑固おやじもその辺から出てくる。
 人生は流れ動く。人間のやることで何一つ永続性のあることはない。君になにかの拍子でシェークスピアの霊がかかってきて、某月某日、君が卓抜の智慧を玉の如き言葉にのせて、呑み屋のオカミに語ったとしても、かの女はドキリとさえしないであろう。オシャカ様の説法もガスの放出一発で風の如く去る。東大総長の学殖ゆたかな畢生の大演説も、早くこれが終わったらビヤホールにかけつけて、キリンビールをぐいとやろうと思い決している学生には、イモの皮ほどの値打ちもない。ウィリアム・ジェームズがいうように、この世界は多元宇宙であり、視る人の目の数だけの世界がオーバーラップして今ここにある。人生のヴァラエティは人生流動を空間的に横に切った、その切り口だ。 
 この文よ、風にとばされてあれ!
2 風の翼に乗りあるく者をほめよ
 額面通り受けとるということーーそれ以外に人生には手がない。あるがままに、シロはシロ、クロはクロとうなずく。中間のグレイだの薄汚れたネズミ色などは相手にしない。ただイエスイエス、ノーノーというのみである。
 じゃあその中間はどうしてくれるのだと開き直るひとがいる。さあ、どうしてくれようか。どうしようもないではないかーー行動の場ではそういう答えしか出てこない。それが人生の真実だ。それのみが人生だ。文句なしである。
 ネズミやハトやネコには不思議な本能がある。火事になる2、3日前からネズミが電線をつたって、どこかへ避難する。ハトはレーダーなしに何百里を飛行してまっすぐ巣にかえる。ネコは腹に虫がわくと、寄生虫駆除に効能のある野草を喰って虫を出す。その他生物の不思議さには限りない例証がある。ダーウィンはそれに驚いた。驚いて観察した。観察の結果をあのように緻密に膨大な著作にまとめ上げた。
 人間の不思議さを描く学者が欲しい。しかし私の見たところ、二十世紀の中頃までたいした学者はいないようだ。予感的に「それ」を知り、詩の形や、むずかしい哲学の形にまとめ上げた人はいた。禅の坊さんのように奇矯な行動で逆説的にそれを表現した人もいた。しかし「それ」を大衆にこれだという形でほんとうに明確に示した人はいない。「それ」は論理をこえている、人の想像をこえている、求めようと思ったってもとめられるものではないーーそんなふうに説く人のことを不可知論者というが、初めから不可知であればそんなことを改めて説くのがナンセンスではないか。そんな訳の判らない話ならば、ダルマのように九年も、タタミがくさるまで坐りこんで、壁をにらめつけていたほうがましだ。
AZの人間革命