しかし、もう二十世紀も峠をこした。人工衛星はどんどん空に上がっている。スピードは早い。宇宙世紀の明けそめだ。人生は何万年の昔から急行列車であったが、いまさらのように人々はそれに気がつき始めている。
 なによりも行動だ。動いて「なにか」を創り出さねばならぬ。科学者も実業家も芸術家も、大いに動いて、大いなる価値を創り出さねばならぬ。過去の人類の誰もが夢みなかった大きな構築をせねばならない。
 ロシアの予言者ベルジャエフは、来るべき世紀ーーそれは中世紀の薄明がふたたび周囲に立ちこめてくる世の中だーーには、いろいろの人間活動の仕切りが撤廃されて、哲学者が芸術創作をやり、社会改良家が大いに自分で金儲けをする時代がくるといっている。それはほんとうだろう。ルネッサンス期の人間理想だった「完全人」、ミケランジェロやダヴィンチのような人間の誕生が要望されるし、また続々と思いもかけぬ地点から現れてくる世紀がくる。
 人間は多かれ少なかれ断片の素質をもっている。それぞれが切れっぱしなのだ。一つだけでは何の使いものにもならない。それで今まで、長い人類史で、こいつは無用の存在だと烙印を押されて社会から追い出されたり、十字架にかけられたり、キチガイ病院に入れられたり、皆からツバを吐かれたり、貧民窟に押し込まれて野垂死にしたりした憐れな犠牲者がウンといた。
 見よ、君らの足下には無数の死者が、骸骨となって悲しい歯ぎしりをしている。浮かばれない亡者がなんと沢山いることか。キレッパシが泣いている、うめいている、叫んでいる!
 断片をつなぎ合わす人間が必要だ。人類の要望だ、切願だ。世界中の図書館に何万巻何億巻の書物が眠っている。かれらも待っている。すべての知識が、人類の頭脳の遺産が大整理大綜合をまっている。君らにはあの叫びが聞こえないか?
3 信じられない人のために
 人を信じ切らないということは罪悪であり、不幸である。「罪」といったのは、人間は本来幸福になるように約束されているのに、自分で幸福の水道の栓をしめてしまうから、神のせっかくの親切を無にすることにという意味で、これは一種の大逆罪である。
 この章ではじめて私が「神」という言葉を筆にしたので、意外に思い、またガッカリした人もいるだろうと思う。
 神さま神さまという人間はたいてい眉唾で、なかんずくクリスチャンというのはコチコチで、融通の利かない人種であると思い込んでいる若い人が多いだろう。またすぐ弱音をあげて、苦しい時の神だのみ、神さまにペコペコして何かご利益が(信仰によってお金をもうけたり病気が治ったりするたぐい)ばかり求めている連中はみな軽蔑に値するヤカラだと、まあこんなふうに考えている人もきっと沢山いるに決まっている。
 リンサンも、信仰をしていると自称する人々に対しては,一応眉にツバをつけるほうだが、そのくせ信仰をもっている人々のなかには、時おり本当に立派な人がたくさんいるという事実も、人一倍知っている。だから私は決して宗教をバカにしない。バカにしないどころか、人間が宗教を失ったらこりゃもうおしまいだとさえ思っている。
 「リンサン、あんたの宗教は一体何だね?」
 こうきかれると、私は困ってしまう。なぜなら私は世界中のおおむねすべての宗教を研究したし、研究したというばかりでなく、いろいろの宗教の信者になってきた。
 四人まで奥さんをもっていいと教えるマホメット教にひきつけられたこともある。禅にもこったし、キリスト教では杉並にある或る宗派の教えに従って、是政付近の多摩川で洗礼を受けたこともある。洗礼というのは、もう汝はこの世の肉体的いのちにおいて死んだ、これから水葬式をするというわけで、水にとっぷり身体をつけることであるらしい。全身沈めるのが本当で純粋であるとその牧師は言った。イエスも洗礼者ヨハネの手によってこの全浸礼をうけた。のちこの儀式がだんだん形式的になり、全身水にひたるのは寒いし面倒なので、牧師が手に水をつけて受洗者のあたまをチョッとぬらすだけになった。
 私がやったときは、厳寒で、フンドシ一つになって河のなかに入ったとたん、思わず爪先立ちで、はずかしながら胴震いしたことを覚えている。六十近い牧師さんはその朝四五人の信者に洗礼を施したあとで、やはり唇をむらさきにしていたが、私よりもよほどシャンとしているところは、やはり信仰の力はすごいと思った。
 死ぬときには下を向いて死ぬのが自然なので、私も下向きになって、腹のあたりを牧師さんに支えられて、あっというまに前方に回転してすっかり沈没、やられたとおもったとたん助け起こされてホウホウの態で岸に上がった。
 このころ私は悩んでいたので、一刻も早く安心立命を得たく、自分がわるい奴だという思いから抜け出したかったため、そういう非常手段に訴えたのだが、この洗礼後急に自分が浄らかになったという記憶はない、
 しかしもしかすると、そんな苦労もなにかの縁になって、現在はこんなに呑気に、金はなくても胸中たえず清風が吹き、自由な生活を送れるのかもしれない。その他踊る宗教に入っていたこともあるし、原宿に建築家岸田日出刀の設計になる大ビルを構えている生長の家の極めて熱心な信者だったこともある。
 これを読んでいる人の中にも、私に負けない宗教遍歴の過去をもっている人もいるだろうから私が過去に長いこと宗教亡者であったことを知ると、いくぶん安心もするだろうと思うので、以上のことを記した。
 ところで私の結論は、人間は別に既成の宗教にたよらないでも幸福になれるということだ。ところがたいていの宗教家は「私のところの門をくぐらないと天国にはゆけませんよ。地獄に墜落ですぞ」とおどかす。これをチョッとでも言い出したら、その宗教家はインチキだと思っていい。宗教に独占はないはずだ。個人の自由はたしかにあるのだから、めいめい好きな道をすすんだらいい。ある一つの道をいかないと目的地につかないよというのは、あまりその辺の地理を知らない案内人の言うことである。人生に道は無数である。浜の真砂ほど人の数があれば、その人たちが通りうる道は、その無数に輪をかけた無数である。このことは信じていい。
 自分の道もかぎりない。他人の道もかぎりない。そしてどの道も幸福に通じている。このことがハッキリ信じられたら、自分がAという道を行こうとしたのに、友だちの甲さんが邪魔をしてZという道を行かされる破目になったとしても、すこしも怨む気になれないではないか。
 また他人がどんな出方をしたって、結局すべてが自分を幸福にするための近道を教えてくれる手段であるということが分かったら、どんな事態でもよろこんで受け入れられるではないか。
 今書いたことは本当である。理論上本当なのではなく、体験上、現実において本当である。これが分かったらあなたの人生は変ってくる。毎日が幸福の発見になる。あなたの人生行路には光がみなぎってくる。あなたの生活に活気がでてくる。モリモリ働けるようになってくる。あなたの身体の底にねむっていたエネルギーがふんだんに出てくる。人間がひろびろとしてくる。そしてあなたの人間そのものが魅力的になってくるのだ。
 人を信じたまえ。地獄の鬼のような顔をした人間があなたのまえに出てきても、気をおちつけてじっと人の顔をみてごらんなさい。あなたはそこにいろいろのことを発見する。闇の中に光をみる習練をつんで下さい。目をこらせば見えるようになるのです。そうするとAZの秘密があなたのものになる。
AZの人間革命