4 ワイセツについて
 F.L.ホームズ博士が THE TWENTY SECRETS OF SUCCESS (邦訳『思う事がかなう20の意見』ー日本教文社刊)のなかで次のような話をのべている。
 アメリカの公立学校の或る先生が子供たちに宿題を課した。それは何でもいいから「光」をあらわした写真をもってこいというのだった。するとある少年がきわめてワイセツ(と先生には思われた)な写真をもってきた。もちろん先生はカンカンで、なんだこれは?とどなりつける。「だって先生、窓に月が光っているのが写っているでしょう?」と少年は頬をなみだで濡らしながら言った。月、なるほどそれは少年の注意の大半をうばっていたのだ。先生の目には月よりも、その妖しい男女の姿態の方が大きく映っていたのだ。
 こうなるとワイセツは全くその人の心の方向次第だということが分ってくる。つまりワイセツという客観的なものが外部にあって、世間の良識に対立しているという見方が成り立たないのだ。ワイセツな人間にはどんなことだってワイセツにみえるのである。
  『チャタレイ夫人の恋人』をかいたローレンスはワイセツが何であるかを深く考えた英国の作家で、もっともワイセツでない小説を書こうと企画した。ワイセツな世の中につくづく厭気がさしたので世間にセックスの原爆をぶっ放すことを考えた。
 それがやはり相当の世間の反響を呼んだ。あの堅苦しい英国ではとうてい本を出すことができなくて、ローレンスはフランスで自費出版した。そのうち、この書物がおいおい世間に流布し出した。太平洋戦争が終わって、日本にも『チャタレイ』を原文に近い訳で出版するチャンスが訪れた。つづいてチャタレイ裁判がおこる。伊藤整の訳は大していいものと私は思っていないが、一応まじめな訳だった。それが世間に大騒ぎを起す。文壇も伊藤整擁護に立った。検事側も弁護側も、いろんな人間が次々と出てきて阿呆らしい論戦をこころみた。阿呆らしいというのは、どちらの側にも相当にワイセツな連中が出てきて勝手な熱を吹いたからだ。
 冒頭にあげた小学生の例もいいが、もう一つ私の忘れられない話を紹介しよう。
 それはクリスチャンの聖者ともいうべき現代米人の話である。かれのいつも余りに純真な性質に業を煮やした悪友が、ある日一計を案じ、この「聖者」に劣情を起こさせようと決心して、かれをもっとも「効果的」なストリップ・ショウに誘う。裸女の熱演数刻。ほてった頬をおさえながら悪女は「聖者」と共に劇場を出て、どうだったときく。おどろくなかれ、聖者は目に涙をさえ浮かべている。
 「こんなに美しいもの、私は今までに見たことがない」と言葉はすくない。
悪友は呆気に取られる。聖者は言う。 
 「私はほとんど天上にいるような感動で踊り子たちをみていましたよ。あのように素晴らしい芸術を見せていただいたことに対してあつく君に感謝しますよ。
 冗談じゃないと悪友は思う。これを読んでいる諸君もそうであろう。しかしこれは実話なのだから仕方がない。数はすくなくても現代にこういう人間もいるということは真実だ。
 聖者は勃起すらしなかったかと問う君らは愚かだ。したかもしれない、しなかったかもしれない。それは大したことじゃない。大切なことは「聖者」の感銘が肉体の慾から切り離されていたという事実である。肉体の反応があったかなかったかという問題ではない。たとえなかったとしても、誰か「聖者」の隣に坐ってご丁寧に一物を摩擦してやったとしたらどうだ。どうにもこれは機械学の分野である。生物学の一データである。問題はそこにはない。
 こう言った「事実」の信憑性はもう君たちの人間の質の如何にかかってくる。私個人について言うならば、こういったことは非常にありうると信ずる。信じないといえばそれまでだ。君はまがいもなくワイセツである。
 女の裸体をみて目をつぶれというのではない、禁欲主義は裏返しにしたワイセツであるから。五欲深重、結構である。慾は旺盛なほうがいい、生きているのだから。烈々と生きるほうが、カスんでやっと生きているよりいいのは決まっている。
 目をみひらいてセックスのすみずみまでを見きわめよう。ウツボツと性慾が起こってくる。OKである。起りつつそこから離れている自分をみている。静かに見ている。そこには「分離」がある。
 性欲の嵐にまき込まれてカッとする。前後の見さかいがつかなくなる。小平義雄になる。これも自然だ。しかし前述のストリップ聖者、これも自然だ。ともに認めよう。しかし両者を比較する。雲泥の差だ。前者はセックスの哀れな奴隷、後者は反対、セックスの主人公。セックスは人世の尊さ、美しさを高める具である。祝福され聖別されたものがそこにある。この奇蹟がつねに一個の人間の魂のうちに行われている。驚くものは幸いだ。
 私、リンサンは性慾は人に負けない。現在の世のしきたりに従って、一夫一婦の契約に従って「結婚」という門をくぐった。しかし一夫一婦がなぜ大切であるかが一向に分かっていない。
 この件について二十代半ばに悩みもした。八年まえアメリカで一年をすごしたとき、一夫一婦の根源を説く唯一の教師スウェーデンボルグの神学に熱中した。理屈はわかる。この道を守らなければ地獄におちるらしい。今なお犯したい意欲旺盛である。妻には正直にこの気持ちを語った。妻は悩む。そして彼女も私との生活に適応するため新しい人生観に到達したらしい。(妻十菱鶴子は男女の問題、愛・結婚・夫婦の問題について、今まで男の側からのみ多くの発言がなされたことを不満とし、女の最も正直な立場を小説で表現したいらしい。私はかの女のこの企画をいつも励ましている)
 しかし、みずみずしい乙女の肌にふれたいという私の慾望も、かの女にそれだけの強さがない場合、つまり私に征服されたことを誇りと思うだけの準備ができていないかぎりは、しとやかなること白鳥のごとしである。合意ーー100パーセントのーーが姦通の唯一の許可証である。私に愛される乙女は嫉妬から浄められていなければならぬ。ケチな独占慾から解放されてなければならない。情婦という言葉のトゲに刺されないだけ何かを明らかに見ていなければならぬ。愚かなるがゆえに、たとえ妻が逆上しようとも、その逆上に巻込まれないだけ冷静でなければならぬ。また目のくらんだ性慾と、肉体の底まで見通す澄んだ魂の目との相違がわからなくてはならない。
 一語にして私はワイセツではない。
 真にワイセツでない人間は、ワイセツな言葉、ワイセツな身振り、ワイセツな思考を怖れない。
 君たちが誰でも知っている人間でワイセツでない有名人を一人挙げようか。おどろくなかれ、それは我らの森繁久弥である。
AZの人間革命
5 ザックバラン
 目次を開いてこの章を先によむ人はザックバランな人か、ザックバランであることに魅力を感ずる人である。ザックバランとは八方破れであり、宮本武蔵の兵法のコツであり、塚原ト伝が無法者をトリックにかけ舟にのってさっさと逃げてしまった無手勝流と同じだ。
 そんなのは人間が呑気であった大昔のことで、この生存競争の烈しい二十世紀には適用しないとウソブク人はザックバランの効用を知らない人で、人生の難局に面するといつもバタバタし、他人を統率する器量などサラサラ持合わせず、せいぜい人の尻馬にのりあれやこれやあげつらい、おれこそはインテリだとうぬぼれている手合だ。