トンさんの例を出したのは、実在で、しかもきわめて優秀な人材ですら、このような否定的思考習慣の奴隷になっているという怖ろしい事実を言いたかったからだ。
 ここで人生の勝敗はきっぱりと分かれる。この本をよんでいる若い人々よ、今から「橋の下乞食」的考え方の癖をさっぱりと洗い流して下さい。
 そして未来に熱するのだ!
 未来に熱するというのは、未来の企画、未来の理想、未来の野心のなかに、スッポリと現在の「私」を漬けてしまうことだ。そうすると現在がみるみる変化してくる。いっぺん紙の上に鉄粉をまいて見たまえ。それはデタラメである。偶然の手でメチャクチャにばらまかれた鉄の粒の群集であるにすぎない。そこに一つの磁石をもってくる。紙の下におく。ピタリと置く。どうです、すべては整然と、法則にかなって、磁力線のまにまに排列し直される。
 これだ。未来を、君の現在の無意味なつまらぬもののゴッタガエシの下にぴたりと当てることである。すべては目覚しい変貌をとげる。今までつまらぬつまらぬと呟いていた毎日の生活が魔術的に変貌する。
 一つ一つのどんなに小さい行為でも、おのおのが君のはっきりした目標をめざして統一される。君自体が一つの人間磁石になる。君の廻りは磁場になる。君のそばにくる人間はみなピリッと感電したように、君の生命の雰囲気が命令する方向に首を向ける。要するに君が主人公になるということだ。君の行くところどこででも君が支配者になれるのだ。
 主人公は英語でヒーローという。ヒーローには英雄という意味があることは中学生でも知っている。しかし小説や映画の主人公がナポレオンやシーザーと同じ名詞をつかって呼ばれることに、不思議さをおぼえて考えた人はあまりいないのではないか。
 このことをよく考えた私は、そこから日本の現在の小説はダメであると結論する。弱い者卑怯者の言いぬけや自己正当化にすぎないような小説が無数にあるではないか。そういうのを三文小説と呼ぶ。そんな小説しかよまない人間をグウタラと呼ぶ。
 見たまえ、ベストセラ−になる本には必ず英雄が出てくるから。『大番』のギュウちゃんはもとより、『晩歌』の玲子だって英雄性をもっている。女英雄玲子は自分の肉体的ハンディキャップから人々のビリになるのが厭なあまり、悪魔と結託しても、世間に挑戦し、ただの恋愛じゃつまらない、地位も金もあり思いやりもありそうな頼もしい桂木に英雄的横恋慕をし、どうせママンに犠牲になってもらうのだったら、凍てついた氷の湖上に白鳥を射つ猟師のように、派手やかな謀殺をおこなおうと決意する。すべてが半意識的に進行するからこの悲劇はおそろしいのだ。意識の底、骨身にしみた英雄意識はこわい。この小説を注意ぶかく読む人は、最初の方に、結末の殺人が周到な伏線として出ていることに気づくであろう。これも熱した人間の物語だ。ただ玲子が悪魔の学校の生徒であったことが大問題だがこのことはしばらくおく。
 三島由紀夫創造するところの「よろめき」の女主人公もやはり悪魔的方向だ。これも女の常だが半意識の薄明のなかに、すべてを秘めて、未来に熱して生きる。これも世間への真向からの挑戦だが、三島の筆先の魔術に世人はコロリと参って、風邪薬の広告にまでこの流行語を使って本の売れ行きを増すサービスをやっている。三島という悪魔の子も世間とは甘いものだとせせら笑っていることであろう。
 こう眺めてくると、未来に熱するーーこの成功の秘密をもっぱら悪魔の子たちがつかんでいて乱用していることが判ってくる。そして世間というウジムシの結合体は、悪魔の尻尾の先でピシピシと背中を打たれて上や下への大騒ぎをしている。
 未来に熱するのはいい。しかしただ一つ覚えていなければ大切なこと、それはAZの出現は全世界の悪魔退治を目的としているということだ。
 とにかく悪魔の章をもっとあとに設けずばなるまいて。
7 みんなで喰おう
 女房は言う、わたくし一人ならどんなことをしてでも食べて行ける自信があるけれど。私は言う、一家を養うというのはアクビをするようなものだが、一つのカンパニーを養うとなると相当気ばるね、と。
 会社をつくるということを、百人中九十九人のひとが誤解して、個人の欲望を達するために、雇い人をなるべく安く使って、他人の血を吸って肥えることだと思っている。チンピラ商店主、チンピラ社長はたしかにそうだ。しかし、世界的に大きなビズネス・マンをみると最初からそんなことは考えていない。
 職のない人に職を与え、富んだ者のふところから貧しい者のポケットにお金を移動させること、これこそ本当の事業の目的でなければならない。「わたくし」がなくなればなくなるほど、その人の目は広く世界に向かって、一村より一町、一町より一市、一市より一県、一県より一国とひろがって、ついには世界人類の物心の幸福を考えるようになる。
 日本のような貧しい国に生まれて、一国の貧しさを真剣に考えない人間はちょっと頭がどうかしているのだ。アメリカのように特別富んだ国が海をへだてた隣にあって、貧富のコントラストを強く感じると、これはどうにかせねばと本気で考えるようになる。
 さらにアジア全体をみると、日本は全然良い方で、餓死寸前の人々が他の国に無数いることを知ると、おのずと世界経済のバランスを考え、このような不平等ができた原因をつきとめ、自分の生きているあいだだけでも、すこしでもいいから自分の周囲を正しい方向に押しすすめてゆこうという気持ちがおきる。
 なるほどリンサンは売名をする。大阪人のいうエゲツナサの極端まで、リンサンの名をひろめ、すくなくとも、日本の津々浦々まで知らぬ人のないようにしたいーーこの欲望は限りなく強い。次に金だ。私は真珠王御木本さんのように巨富を握っても大したことができない人間とはちがう。西郷南州は命と名と金のいらぬ人間ほどこわいものはないと言った。もちろんかれは当時自分以外にこわい人間はいなかったのだから、あの言葉は自分に向けたものだ。しかし彼はたしかに逆説を言ったのだ。命と名と金のいらぬ人間など地上に一匹もいない事実をふんまえての豪語だ。いいかえれば南州はケタはずれの生命慾をもっていたのだ。これは全くリンサンに似ている。
 ケタはずれということが大切だ。慾を殺せというのはあらゆる小乗宗教が説いたところだが、大乗宗教(大乗とは大きな乗物で、みんなが一緒に救われようということだ)では慾はそのままにして、むしろ全人類をおおうほどに大きいものにせよという。この証拠はあらゆる経典に書いてあるが、リンサンが書いているこの本は、インテリ打倒を目標としているので、知識をうしろだてにすることをしない。人を納得させるために教養をひけらかすことは卑怯だとさえ考えている。またそんなことで引っかかって、このように学のアル人のいうことだからたしかだろうと推測するほうも愚かだ。
 大切なものは学問ではない。みんなで喰おうというその気構えだ。自分だけ旨いものをタップリ喰って、ほかの飢えた連中のことは構わぬ、貧乏は貧乏する方が悪いのだ、第一あたまがない、次に怠け癖だ、その罰が貧乏なのさとうそぶく人間は私の敵だ。みんなで喰おうという心のない奴はすべて信用できない。
 こうした生き方に賛成する人はみなリンサンのまわりに集まってください。そして大きな力を創ろう。私は事業をするのに、エライ金満家に頭を下げない。かれらの金は腐っている。狡智と術策と横暴によって民衆から集めた金を使いたくない。また腐敗した政治家の力を借りようとは思わない。政治家が必要とあらばAZ政党を思い切って作ろうじゃないか。そしてわれわれの代表を議会に送り込み、左にも右にも自由に揺れて、既成政党の非を鳴らし、理非曲直を明らかにしようではないか。
AZの人間革命