8 金
【きょうの言葉;2月5日(水曜日)】
 ジュリ・カルル・ユイスマンス(1848-1907)フランスの小説家。ゾラたちの自然主義のグループに属していたが、のちカトリックに改宗、神秘的呪術的な信仰を示した。きょうパリに生まれた。
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「金のもついろいろの規範は、いつの世にも決して中断することなく、常に明確である。金は類を呼んで、一ヶ所に集まろうとする。しかも好んで悪人や凡俗のやからのところへゆく。もし金が、不可解な例外によって残酷でも卑劣でもない富者のところにあつまるときには、まったく生産能力を失ってしまって、有能な財産となることもできず、慈善家の手にわたって高尚な目的をはたすこともできなくなる。これを見ると、金は本来極悪詐欺漢や排斥すべき愚物のしょゆうとなるべきもので、さもなければ、あやまった使用に供せられた恨みをむくいるためにこうして好んで無能力をよそおうのだといえよう。
 なおまた、金が戸まどいして貧者の家にはいるときには、さらに奇妙な現象をひきおこす。もしそれが潔白なものであれば金は忽ちその人間を堕落させるし、極めて廉潔なものをも卑劣な人間となし、肉体と精神の両方面に作用して、下劣な利己主義と浅ましい自尊心とを、所有者に強制し、金を自分ひとりのために費やそうという考えを起こさせる。そのために謙遜な十僕もごう慢になり、寛大な善人も守銭奴となる。金は一瞬のうちにあらゆる習慣をやぶり、すべての思想をくつがえし、一徹な情熱をも変形させてします。」
 −田辺貞之助『彼方』より (ある新聞の切り抜き)
 ユイスマンスという男がどんなに偉い男であったとしても、右(上)に書いてあることはインチキに決まっている。
 世間の千人中九百九十九人がそうであったところで、その「不可解な例外」(第2段)を究明することなく、誰でも知っている世間の常識をこのような形で表現したところで何になるか。
 後半、第三段中央から後には全く異論はない。貧乏人はもともとその魂が金(物の変形)に対して弱いことを、天意が知っていて貧乏の淵からなかなか外に出さないと思われる節が多々ある。
 前半はまちがいだらけである。ユイスマンスは、なぜ、金が「不可解な例外によって残酷でも卑劣でもない富者のところにあつまったとき、まったく生産能力を失う」か、その点について何の説明もしていないし、ここには論理の、というより内容の飛躍がある。したがってかれの論ずる所は重大なあやまりを冒している。
 もちろんユイスマンスは「不可解」と断わっているのだから、言うことにツジツマが合わないのは無理がない。だから私はこれ以上ユイスマンスを責めまい。 
 要するに金は物に化ける何ものかであり、金があれば人生を自由にできる(もちろん或る程度までと注をつけたほうが誤解を防げるだろう)。人生を自由にできるというのは、好きなものを食い飲み、手に入れ、見たりなめたり感覚でエンジョイし、どこにでも旅行できたり、趣味ゆたかな生活を周囲にくりひろげられるということばかりでなく、人間そのものを支配できるということだ。これも常識。
 しかし、常識といっても、ここに深い真理がある。つまり金の力で言うことをきく人間はものと同じという事実だ。
 インドネシアの予言者ムハマッド・スブーはその著書『スシラ・ブディ・ダルマ』でこのことを深くついている。スブー師は英国の思想家ベンネット博士に招かれ、1957年5月に英国にわたり、ヨーロッパに数ヶ月の間で800人の弟子を獲得し、女優エヴァ・バルトックの子宮筋腫を治したというので、有名紙デーリー・メールに大見出しで紹介され、そのことは読売新聞にものった。
 私は数年前スブー師の直弟子で言語学者の英人フセイン・ロフェ氏が日本に渡来したとき、生長の家の創始者谷口雅春氏との会談に通訳として同席、その後ロフェ氏から、スブド(スブー氏が創めた団体の名)の秘法「ラティハン」とインドネシア語で呼ばれる魂の修練法の伝授をうけ、日本支部の責任者としてしばらくスブドの弘法にいそしんだことがある。それで・・・・・
 スブー師は「物は生きている」といっている。物には物自体の力があり、無防備の人間どもの魂にくい入り、物が主人公になり人が奴隷になるという奇妙な事態がおこってくる。つまり人間の皮をかぶった物という怪物がそこらにいる。どこにいるのかとキョロキョロする必要はない。千人中九百九十九人、いやもっと高い比率で大抵の人間がこの「ものひと」である。
 だから金の力はものすごい。日本中の社会が隅から隅まで、でたらめに腐敗しているとすれば、この「ものひと」をことごとく一種の「霊的人間ドック」に入れて治療しなければ、日本はよくならない。スブドのラティハンはこの「人間ドック」である。このドックに入ってどの位人間が変わるかは、やってみなければ分からない。すくなくとも私は変わった。だから気の向く人はすすんでスブドを試みたまえと言いたい。しかしこの『AZの人間革命』はスブドの宣伝書ではないからこれ以上くわしく述べるのはやめよう。
 私の言いたいことは、金を支配する人になれというすすめである。金をもてというのじゃない。一億の金をいま君が銀行の自分の口座に振込んだとしても、それが君に何をプラスするか。君はまず金の使い方を知らなければいけない。金の主人公になっていなければならない。主人になれば奴隷は言うことをきく。「おい、こっちへ来い』と言えば素直にくる。素直にこないとすれば、それはまだ君が金に嫌われているからだ。
 悪人や凡人のやからでも、きわめて純粋に金に恋すれば、金も君に恋いこがれてやってくる。そのかわり君が、さっき言った「物と金に対して無防備な人間」であれば、君の身体と魂は金にくい荒らされる。話はかんたんだ。
 金持ちにならなくてもいいではないか。よどんだ水はくさる。その代わり金を自由にできる人間になろう。今朝十万の金をにぎり、夕方スッカラカンになり、明日百万の借金を背負おうと、あさってまた千万の金が入ればそれでいいじゃないか。そしてこの金の動きの中央にドッカと坐って、その金の力によって人々が幸福にはたらき、できるだけ沢山の人がゆったりと暮せればそれでいいじゃないか。こういうふうに君が生きれば、君は闇夜の灯台になる。君は百万人から愛されるし、尊敬もされる。
 金ばなれがいいということともちょっと違うな。バクチ打ちは賭に対して金ばなれがいいかも知れないが、それによって周囲の人を幸せにはしない。
 金の主人公になる生き方、これは懐中に一文もなくてもできるし、巨億の資産をもっていたってできる。これはユイスマンスの思想などよりはるかに深い真理である。

 *付記 スブドに関する問い合わせは下記の「スブドジャパン」へ
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