9 日本語の法華経
 これは私の章題であるだけではなく、高村光太郎の良き友であった江南文三さんの遺著のタイトルである。
 古い日本文学史に出てくる江南さんは、私が府立一中にいたころまだ英語を教えていて、私たちはエナさんエナさんと言って慕った。すごくいい人だったのだ。私の同期にはエナさんの息子がいたから、特に仲間に好かれたのかも知れない。
 エナさんが『日本語の法華経』をあらわしたのは、ちょうど大東亜共栄圏という言葉が叫ばれていたころで、エナさんは侵略戦争などと疑ぐるすべはなく、ひたすら南方の、日本語を習いかけた兄弟国のみんなに、この有難いお経をよんでもらいたいという一心で、妙法蓮華経二十八品を平易な日本語に訳した。
 これも私の愛読書、昭和十九年に大成出版という本屋から定価五円で出ているが、もちろんもう今では神田の古本屋にころがってでもいたら、珍本と心得て値段の如何にかかわらず買っておくべき書物である。
 鳩摩羅什の漢訳はいかにもむずかしいから、江南訳はぜひ私もお金ができたら採算を無視して出版したいと考えている。私たち以外にこんな本を出してくれる奇特な出版社はよもやあるまいと思っているからだ。
 私の持っている本は傍線だらけで、苦しいとき疲れたときに、何度読んだかわからない。私のように慾の深い、破戒の人間がこの法華経やらコーラン、バイブル、その他の宗教書が好きですきでたまらないというのは、どうにもこうにも見当のつかないことに読者は思われるかもしれない。
 この本はおもしろいのだが、あちこちに神や仏が出てくることさえなければなあと嘆く人も多かろう。しかし待って下さい。法華経がいかに面白いかということを、この章に書いてゆくつもりだから。
 たとえば方便品第二は「仏の手くだ」という題がついていて初めのところは次のように書いてある。
 この時まで身動きもせずにいらしたお釈迦さまが、文殊菩薩の歌が終わると、静かにお立ち上りになって、慾をすっかりすてきって世間の人に尊敬されているお弟子さまのなかの舎利弗というのに向かっておっしゃった。
 「仏のわきまえていることは、普通の人にはなかなか想像もつかないことで、第一そういう心持のほうへ一足(ひとあし)でも二足でも入ってゆくということが、普通の人には、なかなかできないことなのだ。耳できいたり本でよんだりして、すっかり分かったような気になっている連中だの、ただ自分だけの苦しみや悩みがなくなって、心がおだやかになりさえすれば、それだけで満足だと思っている連中には、まるで見当のつかないことなのだ。いったい、仏というものは、仏にいよいよ成るまでに、幾千億とも数の知れない大勢の仏のひざもとで、親しくその教えを受け、一人一人の仏から受ける数限りない沢山の教えを全部実際におこなって、どんなことに対しても、めげず恐れずやってゆくというのが通り相場になっているものなので、自分がまず何より一番深いものを会得していて、それを人に伝えるために、いろいろと相手の人によってそれぞれ分かるように趣向を変えて言ってきかせているのだけれども、肝心なことはなかなか通じないものなのだ」
 こうやって私が写経をしていると、写経の功徳というものか、不思議に今まで分かっていたものの何倍もの新しいことが分かってくる。どこをどんなふうに分かったか説いてみろと言われても、右(上)に転記した文句だけでも何十冊何百冊の本ができるだろう。お経というのはそういうものである。そのあとこの品の最初の偈(うた)が始まるまで、紹介した部分の二倍ぐらいの量があって、その一句一句がこれまたすばらしいのだが、飛ばして偈(げ)に移ろう。偈はお釈迦さまの言葉のくり返しを詩で表現したもので、漢訳では、
世雄(せゆう)は量(はか)るべからず
諸々の天及び世の人
一切の衆生の類
能(よ)く仏を知る者無し
というふうにすごくむずかしい。江南訳では次のようになっている。
仏はわからないものだ。
天人にだって分からない。
人間にだって分からない。
一切だれにも分からない。
その眼力も分からない。
その信念も分からない。
自由自在も分からない。
一切なんでも分からない。
 とあと数十行つづいている。
 まったくチンプンカンプンな話で、リンサンにはなんでこんなものが面白いのだろうと不審に思うかもしれないが、とにかく面白い。だから仕方がない。
 今まで引用したところだけでも、先に言ったように、数え切れぬ真理がギッシリ詰まっている。というよりも、もう一言一句真理だらけでうなるばかりなのである。
 すこし系統を立てて話してみよう。
 まずホトケだ。生長の家の谷口雅春さんなどはホトケはホドケルことだと得意のしゃれで、あらゆる束縛から離れ、ネバナラヌを捨て、自由自在になることだと解説しているが、これまた分かったようで分からぬこと。要するに、「一切なんでも分からない」ものが仏だと、法華経の教える通りを信じた方が早そうだ。
 現にその少しあと、江南訳では22ページの上段に、
AZの人間革命
ほんとに、舎利弗、仏には
うその言葉はないのだよ。
仏が何か言ったらば
必ずほんととお思いよ。
 とある。「必ずほんと」と思う気持ちになると、仏さまは人間の面倒をヨクヨク見てくれて「色々教えたあげくには必ずほんとを明かすのだ」そうである。漢文のほうでは、「世尊の法は久しうして後に、要(かなら)ず当(まさ)に真実を説きたまう」とある。同じことだ。
 世の中には訳わからずウチワを叩いてナンミョウホウレンゲキョウを唱えている人たちが多いが、あれも日蓮上人が猛勉強のすえ、法華経がお経のなかのお経ということを悟って、かれのお弟子たちに、何は忘れても「南無妙法蓮華経」というお題目だけは忘れ