るなよと言いのこした戒めが、何世紀もあとでやはりこうやって残っている証拠で、めで
たいことである。
 しかし法華経というと、世間の人はとかく狂信的なものを連想して、創価学会のように猛烈な宗派をすぐ考える。ところが実をいうと、法華経の内容は、ここまで紹介したので判るように、実にのびのびと平和な教えなのだ。何のコリもツッパリもいらない。ハハア、そうですか、なるほどねと合点してゆけばひとりでに悟れるようにできている旨いお経である。
 かく申す私も、まぎれもない法華の信者で、私の書くことの一切はホケキョウから流れ出たと考えてよい。私のワイセツ論もブレイン・ストーミング論もことごとく法華経の応用問題で、それを読む皆さんがことごとく仏に成れる道を説いているのだ。
 いったい仏はどんな時出現するかというと、同じ方便品に書いてあるとおり、「世の中が汚なくなっているとき」、つまり「人が慾張りになり、愚痴っぽくなり、その結果、いくじがなくなり、からだも弱くなり、ものをすなおに見ることができなくなってきた」ときに出てくるのである。
 そして次に何のために出てくるかと言うと、「人々に仏が見えるようになってもらうために、汚い気持ちをなくしてもらうために、世の中に出てくるものなのだ。人々に仏というものはどういうものかといういうことを分らせるために、


10 カリスマ的支配
 マックス・ウェーバーの政治論のなかに、支配の三類型としてつぎの三つの形態が与えられている。
 一、合法的支配
 二、伝統的支配
 三、カリスマ的支配
 合法的支配とは一国の首相が、憲法の定めるところにしたがい、国務処理の最高位にあって国民を支配することなどがいちじるしい例で、法の存在ということが前提条件である。法というものは非人格的秩序で、万人がこれに対して屈服せざるをえない強制力が法にある以上、この支配は成り立つ。法が人々の不信を買い、革命が人々の待望する所となったときは、もちろんこの秩序は瓦解する。私の考えでは、法というものは、法がない状態、法が支えられている常識全般が無視される状態を想定したとき、その底知れぬ危険性(と多くの人には思える)を最小限にくいとめるために人為的に作り出された 「目にみえる」防波堤ーー無法・無政府状態に対する弱小者の抵抗にしかすぎない。それは何ら積極的な意味をもたないし、そこには発見と進歩がない。法が制定される状況をみても、多くの場合、権力者が自分をおびやかす勢力をおさえるため、また懐柔するために作り出す手だてである。法の番人はおおむね無能力者である。岡っ引きはそのいい例。
 名判官の大岡越前や、『ヴェニスの商人』のポーシャのごとき人物は、根底において法を信用していない。いわば法を無視したアナキストの立場から物を言い、事件をさばいている。法治論の正反対であるアナキズムがかえって法に生命を与えるという事実は皮肉ではないか。
 第二の伝統的支配というのも、古くから行われた伝統の神聖さや、それによって権威を与えられた者が正当であるという信念にもとずいているのであるから、合法的支配と同じく、支配者も被支配者も精神的にひどく怠惰であることは明らかである。つまり伝統的支配の場において、人は伝統そのものを問題にしない。そこには盲目的な屈従と偉がりがあるだけだ。天皇陛下を一尺先におくとハラハラと落涙したり、頭が五インチ下がるといったたぐいはみな、この伝統的支配の奴隷である。日本の腐った家族制度における親子のトラブルの大小は、この伝統的支配に対する目の開き方にどの位の差があるかによって決まってくる。
 最後のカリスマ的支配、これこそ私がこの章において言葉をつくして説きたいと思う所だ。
 CHARISMA−この原意は奇蹟を施して予言をおこなう神与の知能である。マックス・ウェーバーが聖書のなかからこの言葉をえらび出し、広い概念を与えた。
 つまり一定の人物が他の何人も近づきがたいような超自然的・人間的な、そこまで言わなくとも、すくなくとも非日常的な力や資格をもつ場合、または神からつかわされたも
AZの人間革命
                                             (26ページ)
 ここにゴチック体(太字)で印刷した所もきわめて大切である。まことに
 だれだかれだの区別なく
 残らず仏に出来るのだ。
とお釈迦さまがおっしゃるのだから間違いっこない。
 だれでも、ほんのチョビットした仏心(ほとけになる心)をおこしたら成仏できる、自由自在になれるということを、お釈迦さまは次のように歌っている。
人々がみな仏となってもらうために出てくるものなのだ」
という具合なのだ。
 さて仏がどこにいるかというと、前に書いたように、世の中に惜しい欲しいで目がくらんでいる人々が充満してきたときに、まちがいなく出ていらっしゃるのだ。とすると現代は、そこらじゅう仏が出ていらっしゃるわけではないか。
 あとは心配無用だぞ。
 早く仏になってくれ。
        (同書40ページ)
という行で方便品は終わっている。
 ちょいとふとした気紛れに
 花を一ひら掛けものの
 仏の姿に投げたのも 
 だんだん仏が見え出して
 低く頭を下げたのも
 両手を合わせただけなのも
 片手を挙げただけなのも
 ちょっと会釈をしたものも
 姿を大事にしたために
 だんだん仏が見え出して
 しまいに仏になりきって