のとか、指導者たるに値するとされるような資質、それをカリスマとマックス・ウェーバーは呼んだ。
 カリスマ的支配者には、必ずしも宗教的人物だけが属するのではなく、ナポレオンやヒットラーなども入る。この解釈によれば神も悪魔もカリスマのなかに呉越同舟である。スターリンとイエスをくらべたとき、そこには見のがしがたい重要な差異があるのだが、ウェーバーはその点にはふれていない。この問題はたしかに大問題であるし、この点に決定的解明を下すには、まだ早すぎた、人類史が熟しきっていなかったという理由もあろう。私もこの章ではこの点を充分に明らかにするつもりはない。
 ただ方向の差こそあれ、カリスマ的人間ほど私の心をゆすぶるものはいないとだけ言おう。宿命通であり、超自然の透視者であったエドガー・ケイシーの伝記を私が訳し、自費出版で発行する計画をたてたのも、ケイシーというカリスマ的人物に対する並々ならぬ関心によるからである。
 私がカリスマという言葉にぶつかったのは、平凡社の世界大百科事典のおかげで、この事典をずいぶん参考にしてこの稿を書いている。第六巻の229ページ、中央下にも、「こうした天分は、本来習得されるものではなく、それはもっぱら試めされ発見されるものであるから、ある人物がこうした天分を恵まれているかどうかは、主として奇跡をあらわす証によって、信従者たちに承認されるわけである」と入江啓四郎氏は書いている。
 私はハッキリ株式会社英瑞カンパニーの経営はこのカリスマ支配によるものと言明する。「見ずして信じる者は幸いなり」とイエスが慨嘆したのも、民衆が証を求め、奇跡をおこなうことをイエスに迫ったために、かれがこうしたもの−見えるもの−を通さなければ人々を信従させえないというこの世の約束に直面して思わず発した言葉である。
 イエスはあるときこう言った。
 「わたしがこの世にきたのは、さばくためである。すなわち、見えない人たちが見えるようになり、見える人たちが見えないようになるためである」
 イエスは人々がこのような性質であるために、かれのカリスマを見て周囲にあつまり弟子となった人々でさえ、十字架のドラマが展開されれば一人残らず散ることを知っていた。カリスマの喪失−−それはカリスマ的支配者の権威失墜を意味する。イエスは自己の死によって、一時のカリスマ喪失の危機をくぐりぬけても、より偉大なカリスマを証示しようと考えた。復活、ペンテコステの霊的旋風、これはカリスマの華々しい奪還である。これを通してイエスは2千年の人類を支配する地位についた。
 しかし地上において、おおむねカリスマ的支配者の末路は悲劇である。非業の死、失意の終末が避けがたい。それはそうであろう。カリスマに対しては万といい億という数の民衆が拠ってたかってその力を叩きつぶそうとするからである。
 私は以前ロシアの怪僧ラスプーチンの映画をみた。伝記もいろいろ読んだので、この男に対する関心は大きかったが、映画の終末、ラスプーチンが腹を拳銃でぶち抜かれ、血みどろになってのたうち廻るさまをみて我がことのように身にこたえた。この本の14章にも、私は一人のカリスマ的人間の悲劇的末路を見た。女に裏切られた「孤独な男」が血を吐く声で、離れてゆく女の名を死物狂いで叫ぶところが幕切れであるが。場内が明るくなったとき、だれだか阿呆がトンキョウな調子でその悲壮な叫び声まねしているのをきいた。私は胸の内がにえくり返る思いがした。こいつが、こういう連中が、おれの生命にとどめをさすのだなと思った。
 私が徒手空拳で営利会社をつくり、金力と権力を得、社会に大革命をおこそうと思うとき、カリスマ的支配は私のマストである。カリスマをはなれてはAZは存在しないし、十菱麟が地上に生まれた意味もない。
11 アイディアは凡てのすべて
 章題はAZのモットーのひとつ。この言葉の大切なことはまだ日本の人々にはよく判っていない。
 現にAZと合わずついに飛び出した作家前田純敬は、アイディアなどゴミクタだという見方をしていた。かれは常識の代表者であると自称し、一月半ばかりのあいだ「リンサンにつき合う」という肚で私の周囲にいて、ことごとに私のアイディアに冷水を引っかけていた。
 かれの論拠は、アイディアは単なる観念の遊びで、実行をともなわないかぎり無価値だというのである。しかしかれは重大なことを忘れている。それは実行のモーターはアイディアを燃料として廻るということである。ここに一つすばらしい大アイディアが生まれるとする。それは現実から遥か遠い所に位置し、そのゆえに、富士山のごとく、長くすそを引いて、周囲の群小のアイディアを見おろす立場にある。
 大アイディア、たとえば最近の経済情勢の分析によって、米国経済が下降し、沈滞が東南アジアの市場にもひびき、以上の市場ばかりにたよっていては輸出もあまり伸びない、ということがわかる。よし、外貨事情がいいというスイス・西独・ベルギーーーこれらの国を専門に攻める輸出会社をそだてよう。これは一つのアイディアである。あとは実現過程における小アイディアの連鎖反応が起こるべきである。中アイディア、小アイディア、いずれも馬鹿にしてはならない。小アイディアは一つのねじの如きもの。ねじが一本ぬけているために、巨大な機械全体がストップすることだってありうる。
 IDEA−これをローマ字的に読むとイデアになる。プラトンのいうところの理念である。現象の奥にある一定不変の実体ーイデア。この言葉のしゃれを私は面白いと思う。語源的にもきっと何かのつながりがあるのかもしれない。
 アイディアはイデア、IDEAにLをつければ理想という意味になる。この三者はみな底でつながっている言葉の兄弟である。安っぽい現実主義者やひねくれた懐疑家には右の三つのものは欠如している。したがってかれらは人生を前に押しすすめるチャンピオンではない。他人のしりから不承不承ついてゆく手合である。人間の屑。かれらとは交わりを断つがいい。
 マーヴィン・スモールもアイディアの不死身性を次のように書いている。失敗がなんだというのだ。
 「挫折というのは成長の過程の一部分にすぎない。あなたの今度思いつくアイディアは、失敗した過去のアイディアをほとんど相殺してしまうだろう。」
 私が付言するならば、最後に成功をもたらす輝かしいアイディアは、天外から偶然にひらめいてきた霊感ではなくて、今までの失敗したアイディアの全部が肥料となって、そこから生えた一輪の花である。失敗をおそれて何もしない人間、アイディア欠乏症の人間は、畑にやるこやしの量をケチケチしている百姓に似ている。失敗を築け。死屍累々、山の如く失敗したアイディアを積み上げよ。これが出来なくて大きな成功があるものか!
 げにもアイディアは凡てのすべてである。アイディアの無い人間は、おのれの生きかたを反省せよ。アイディアは間断なく凡ての人間の上にふり注いでいる宇宙線の
AZの人間革命