如きものだ。アイディアを受けとめる受信装置がないとしたら、それは君の罪だ。造化は人間をみな同じように創った。君らの脳のなかに入っている真空管の数は、私のもっているそれと全く同数である。ただ君らの脳のなかに入っている真空管は大半フィラメントが切れているか、スイッチがOFFになっているかだ。無限の宝を抱いてそれを知らざる人よ。無智ゆえの貧窮である。
 君らのなかには次のように不平を言う人間もあろう。
 「ぼくはアイディアをもっている。しかしそのアイディアを生かしてくれる人がいない、機関がない。やがてせっかくのアイディアもしぼんでしまう。数ヶ月たつと、それを思い出すことさえできなくなってしまう。」 
 そしてそういう人は社会が悪い、環境が悪いと嘆く。なるほどその通りだ。特に日本という国はアイディアの種子をまくには最もやせた土壌であろう。
 しかし嘆きをくり返すまえに私のことを、AZのことを思い出してくれたまえ。AZは君らのためにある。人工流産を強制された無数のアイディアたちよ、私のところに寄ってくるがいい。君らをまたこの世によみがえらせてやろうじゃないか。
 アイディアは凡てのすべてーーある現実家はこの言葉をわらった。かれにとって、金が凡てのすべてだったからだ。東大経済出身の秀才 I 氏もまた金の奴隷であった。
 アイディアを大切にしよう。世界中を一変するアイディアはいま、君の脳の中で休息している。それを呼びさませ。嵐を起こせ。
12 悪魔
 小林珍雄さんに聞くと、原語サタンの意味は神にそむく者ということだそうだ。聖書によると、悪魔はもともと天使だったが、試練に耐えきれなくなって天国から墜落した。天使になるくらいだから、相当頭はいいし、人の弱みをよく知っている。それでたえずそこらをウロウロして、弱い人間の頭のなかによからぬ考えを吹き込む。ほら君のうしろにも一匹ついているぞ。
 私が武蔵高校(私立)で教えているころ、一人の男子生徒が自分には悪魔がついているといってすごく怖れていた。かれが悪魔というときには、その言葉にすごく実感がこもっていて、かれにはまざまざと悪魔の姿が見えるかのようだった。
 この男の子は頭がおかしくなるか、あるいは非常に偉くなるかどっちかだと私は目をとめた。その名は梅津英也という。
 世の中には梅津君のように悪魔を抱えて悩まされている人が多いだろう。悪魔退治の最良の方法を教えよう。それは悪魔のシャッツラをぐいとにらみつけるのだ。敵の正体を頭の先から尻尾のはじにいたるまでハッキリと見てとる。それが一番である。
 ところがたいていの人間は、悪魔があらわれるとサッと目をつぶってしまう。目をつぶればいなくなると思っている。これをごまかすという。良心を眠らすという。すると悪魔のやつ後ろに廻って、後頭部の下の方からするすると忍び込む。気をつけた方がいい。
 悪魔の正体、これを知ろうというのが本章の目的だ。
 しかし私はこの辺まで、筆をすすめていくらか書きしぶっていた。なぜならこの悪魔問題は何としても大きな難関で、こいつの正体を白日に照らすことは目にみえない無数の抵抗を受けること必定だからだ。このころ再びひもといている維摩経には天魔のこと波旬のことがしばしば出てくる。魔はこの世に偉大な聖賢が出現することをねたみ、真理への一本道に大手を拡げて立ちふさがり、真剣に努力をつづけている求道の士の鼻先を蹴とばすものだ。マタイ伝4章にも40日40夜荒野で断食したイエスに「誘惑者」が出てきたと記されている。第一の誘惑、なんじ神の子ならば石をパンに変えよという悪魔の命令に対し、若き救世主は、
 「人はパンのみによらずに、
 神の口から出るすべての言葉によって、生jくべきである」
とはねつけ、第二に悪魔が宮の尖塔に神の子を立たせ、飛び下りよと命じたときも、
 「主なるお前の神を試みてはならない」
と宣言し、最後に、悪魔がイエスを高い山に連れてゆき、地上の栄光を一望のもとに示して、「ひれ伏して私を拝みなさい。そうすればこれらをみなあなたにあげよう」と言ったとき、
 「退れ、サタンよ、
 “お前の主である神を拝して、
 神だけに仕えよ”
 と記してある」
としりぞけて、三つの試練を通過している。
 荒野でイエスがこの試練にあったのは、単なる災難であろうか。否、聖書には、はっきり「み霊(たま)にあって荒野に連れてゆかれた」と書いてある。
 悪魔もこの世に存在するかぎりは、神の「用」として活動をゆるされていると、スウェーデンボルグは説いている。
 同じことを維摩経というすばらしい大乗経典のなかに私は見出した。不思議品第六に、維摩詰(ゆいまきつ)が大迦葉(だいかしょう)にむかって次のように言うことばー
 「仁者、十万の無量阿僧祇(あそうぎ)の世界のうちに魔王となる者は、多くは是れ不可思議解脱に住せる菩薩なり。方便力をもって衆生を教化せんがための故に、現じて魔王となる」
 宇宙の如何なる場所においても、また過去・現在・未来を通じて無窮の時間の流れにあって、魔王として人間を悩ます存在は多く、不可思議解脱に入った菩薩(自分の身をすてて人々の苦厄を救おうとしている者)であるというのだ。魔王のおそろしい形相によって身を現ずることが最上の方策である場合に、かりに魔に身を化したにすぎないという。
 「不可思議解脱」というのは維摩経全巻の眼目であって、このお経を1ページ1ページ丹念によんでゆくならば、血湧き肉おどる想を禁じえないすばらしい感動をうけること必定であるが(私は数年してこのお経を英訳したいと思っている)、不可思議解脱については私がここに百万言を費やしても、読者に分からせることはむずかしい。
 宗教上の真理、すなわち人生を底から把握する道は易しいといえば易しく、むずかしいといえばむずかしいもので、通常の論理的思考能力ではいかんともしがたい。大蔵経を端から端まで一生かかって研究したところで、不可思議解脱のにおいでも嗅げるかどうかは保証できない。
 ベルグソンが『宗教と道徳の二源泉』(岩波文庫に訳あり)のなかであのように鮮やかに描いて人類にその方向を示したミスティシズム(神秘主義)のまっ只中に躍りこんで、激浪にもまれ幾度か溺死に瀕しようとして、辛うじて万人に一人は得ることになるかもしれない解脱である。解脱とは人生苦のきづなを解き、真の自由の世界に脱出すること。西洋の生はんかな哲学ではない。大乗仏教完成の地日本においても、大半の知識人が仏教を逃避的な、現実に力をもたないアキラメ宗教と判断しているのを私は知っている。
 AZの創設者である私が大乗仏教の信者であるということは、日本の知識人にとって
 
AZの人間革命