はショックであろう。すくなくともそこには何かが潜んでいるなと感ずるセンスだけは欲しい。
 私はワイセツに材を取り、悪魔に言を托して、大乗仏教の真髄「不可思議解脱」をどうにかして説きあかそうと努めている。
 私の方法は、しげみの周囲を叩いて廻り、中からウサギを追い出すやり方だ。ストレートに行きたいのはヤマヤマだが、対象が言葉を超えた「不可思議解脱」ともなれば、叩いてまわるのが関の山。
 私の使命は衆生をゆすぶること。この怠け者の、千年の惰眠をむさぼっている、鉱物的な世界中の大衆を恐怖と怒りのなかに叩き込みたい。ねがわくは諸天の威神力をもってわが悲願を叶えしめたまえ。
 この章は、はからずも私の魔王宣言となった。
13 ブレイン・ストーミング
 BSと我々は略称している。脳髄の嵐ということだが、この言葉にはじめてぶつかったのは、前にも紹介したダイヤモンド社の『金を儲ける法』(マーヴィン・スモール著、藤井良訳)の第六章である。
 アレックス・オズボーンという人がこの言葉の元祖らしく、スモール氏はそれを祖述しているわけ。要するに人間の脳をフルに働かす一つのテクニックで、集団でやる場合と、独りでやる場合とある。
 私は生得ひとりでやるコツを心得ているらしく、年がら年じゅうBSをそばに引きつけて離さないが、初めてこの言葉に接する人のために判りやすく説明しよう。
 もちろん他のあらゆるテクニックと同じく、言葉は同じでも働かせ方は個人によって違ってくるであろう。オズボーンのBSはリンサンのBSと大分ちがう。スモールの紹介によれば、オズボーンの集団BSはデモクラシーを極端にもってゆくやり方だ。つまり初めから、 BS会議に列席する人々の頭の良否を問わない。何を言ってもよい。どんな突飛なアイディアでもいい。この会議のやり方の唯一の規則は、嵐がおさまるまで一切批判をゆるさないという点だ。会社だとしたら、課長も平社員も小使もない。ありとあらゆるアイディアを雑然とほとばしらせる。出きったところで整理する。はやらせたテンヤワンヤを一歩もでない。
 それで私のやり方はちょっと違うようだ。AZカンパニーでやるときは、たいてい私が出席して本能的なある勘をはたらかせて、会議員のみなの頭が常識のきづなから解きはなされ、自由自在にアイディアの大洋をおよぎ廻るように刺戟を与える。たとえば感に堪えたふうに、
 「フム、それはすごいアイディアだ。それで?」
 とうながなす。そのときもちろん私はその新着想を常識やら既成観念を比べてみて判断するというふうつうの頭の働きをストップしている。およそ何を言っているのか分からないときでも、「そうそう、その通り、スゲエぞ」てなことぐらい言って励ましてやる。そうすると大ていの頭脳は堤を切ってアイディアの奔出を始める。
 AZ的自由なふんい気をBSに加えると、もう批判しちゃならぬなどという戒律はどこかにすっ飛んでしまうらしい。なぜなら別のほうから猛烈な批判や攻撃が始まることがしばしばだからだ。私はどちらに味方をするか。それはそのときにならないと分からない。私はとにかくバランスをとるだけの仕事だから、本能的な平衡感覚を最高度に鋭敏にして、イエスまたはノーをいう。他の連中は私の顔色と語気の調子を大分気にしているようだが、私自身の肯定否定は本来無意味だ。と言ってもデタラメというのとは違う。すこぶる精密な機械の指針が微動するのに似ている。精神の風見車だ。だが、こう書いても分かるまい。この平衡感覚はAZの秘密に直接つながるのだから。
 スモールが紹介しているウィリス・ホットニーという学者の次の言葉は、充分傾聴するに値する。
 「この場合、諸君の必要とする方法もなければ、一定の法則もないのである。
 ただ、頭を自由にその好奇心のおもむくがままに旅をさせればいいのである」
諸君は
 私が右(上)にゴチック体で印刷させた所は大切である。ここが天才と凡人の分かれ目であるから。ホイットニーはつづいて、
 「諸君の必要なのは、ただ昔ながらの童心に帰ることだけである」
と言っている。これもたいへん重要。この一行に人間の智慧の最高の収穫が秘められているからだ。宗教も芸術も倫理も、そして科学ですらも、ことごとくこの一行に帰するということを、君たちは信ずるか。
 そうだ、このことだけを信じたまえ。そうすればAZの秘密は今この瞬間君たちの所有になる。そしていつもいうように、こんな本はドブの中に叩き込んで昂然と大道を闊歩したまえ。君は人生の勝利者だ。
 あらゆる商売にこのBS(特に個人的BS)を生かす法は、詳しく『金を儲ける法』に書いてある。これは本当に良い本である。
 BSのいちばん純粋な形をみたい人はAZの連中が毎月三の日にやっている会に飛び入りをして下さい。われわれは局外者をいやがったりしない。それどころか歓迎する。なぜなら外から来る人は、常連とちがった世界の体験をもちこむからである。どんな人が来ようと、AZのBSの嵐にまき込まれると、いやでも本性をさらけ出さずにはいられなくなる。これは真理の火に焼かれるに等しい。そして真実なる者だけが残り、虚偽を抱いた者ははじき出される。
 前田純敬がいい例である。かれはBSの照魔鏡に目がくらんで、悪口雑言、棄てぜりふを残して退散した。BSは恐ろしいものだ。
14 群集の中の一つの顔
 群集には顔がない。個性がない。一つの塊だ。ものだ。ここに私の根本的な抜きがたい大衆への侮蔑がある。
 この言葉をきいて私を憎むものがあろう。しかし骨身に徹して私と同じ思想をもった少数の人は私の言葉をよろこぶはずだ。そしてこの書物が大衆性・卑俗性の甘きオブラートに包まれた偉大な大衆侮蔑の宣言書であることに気づくはずだ。
 エリア・カザンの映画に、本章と同題のものがある。精神病理学者は関係妄想とあざけ
AZの人間革命