てきたものである。
 現在といえども、私はKK英瑞カンパニーの社長の椅子にあり、翻訳あっせん業を中心にのびてきたこの会社も、東芝や外務省や八幡製鉄など一流どころをお客さんにして、毎月の取引高が百万に近づこうとしている。この限りにおいて、三年前の抱負は確かに実現しつつあるが、現在の私の心境では、事業活動は私のごく小さい一部分にしかすぎない。私は著述家としてのほうが、やはりよりいっそう生き生きと暮せるし、今の会社は弟珠樹にまかしといて充分である。
 また、私の書いたものの出版も、これは商売人に任せるのが順当であるし、私がなにもリキンで出版費用をひねり出す画策をしなくてもいいということがわかってきた。要するに、私は成長してますますリンサンらしくなってきたのである。そして、自分に与えられた時間というものをもう少し大切に使って、私でなければできない仕事ばかりにエネルギーを集中したほうがいいということを悟ってきたわけだ。
 現にいま、カルテックス系の石油会社から嘱託の口がかかってきた。日本生産性本部の仕事でヨーロッパに行くという話もあるし、来年度は可能性がメジロ押しに並んで、よりどり見どりというところだが、いったい私にはどういう「意志」があるのだろう。私はもうオカネや名誉のハナ息をうかがってウロチョロする時期を卒業して、まず自分のやりたいことをやり、環境のほうがおのずから整うという生き方に切りかわってきている。
 こういう結構な生活を私がひとりじめにするのは世の中に対してわるいので、その「原理」を早く沢山の人に知らせたい。この気持ちがあるかぎり、私は幾冊でも本を書きまくって行かねばならない。
 さいわい、私は最近テープレコーダーによる口述という手を使い出した。これだと一分に10枚書ける。一時間に60枚。一冊の本が5時間でかける計算になる。あとは敏腕の秘書が、うまい文章にまとめてくれる。なんてマがいいんでしょう。
16 一物も持つな
 強き者よ、なんじは一物も持つべきでない。
 与えよ、恵めよ、そして身を素裸かにして新しい前進をするのだ。
 ドストエフスキーは借財を負う天才であった。ぜいたくをしたのではない。人の苦を背負ったのである。庇護を求めてヘバリついてくる親類縁者をことごとく引き受けた。かれには公平の観念がなかったようだ。
 「オレだけがこんなに苦しむのは不公平だ」
 そういうケチなことすら想ったことのない男。世界の大文学を打ち出したこのロシア人は、求めて苦を買った。身に鞭打って筆一本でおのれのいのちを搾り出した。名声と収入の増大に幾層倍する「荷物」をつぎつぎと勇猛果敢に背負った。
 もともと、断頭台上タダ儲けにもうけた自分の生命である。今さら、与えるのを惜しむような持物ではない。死刑執行命令が皇帝の口から一秒おそく出たとしたら、『罪と罰』も『カラマゾフの兄弟』もヘチのアタマもないであろう。天下の傑作もタダの産物である。
 タダから生まれてタダにもどる。これが人間の一生だ。それ以外に何があるか。何かあると思うのが妄想−−モウゾウだ。このモウゾウの四字を脳のなかに焼き込め。
 ドストエフスキーは、身に少し余裕ができると、賭博場に走って狂気のように凡てをかける。もうけるためか? とんでもない。スルためである。スッカラカンになるためである。スッカラカンになった途端、かれの創作意欲はカマ首をもたげる。たくましいエネルギーが湧いてくる。無よりの創造である。ドストエフスキーの伝記をよむと、こういうことが烈々と書いてある。
 いつも無からやり直すのが大事だ。モノになりたいと思ったら、いつもオギャアの根元にもどる。一枚のサルマタも持たず、母親の胎内から這い出たあの「時」を思え。
 物は散らせ。そして自由を取りもどせ。魂をしばるクサリを千々に断ち切れ。AZの方法は逆療法である。下痢に天プラを喰わすようなものだ。肺炎患者に水をブッ噛ますようなものだ。
 心と物の貧しい者に、この一章を捧げる。人間はそんなふうに出来ていないよ。人間は地上のウジ虫ではない。やっとやっとで生きているのじゃない。人の顔色をうかがってい喰いつないでいるのじゃない。大家族に首根っこを締められているのではありませんぞ。
 物を持つな。AZの豪の者はまずこの修行をすべきである。そして喜べ。喜んで喜びつくせ。そして、その溢れ出た喜びを手当たりしだいにわかち与えよ。あすのメシがないか。結構だ。あさってより出社に及ばずか。万歳である。結構、バンザイ、OK!とその「展開」を歓迎せよ。そこに力が与えられる。乗り切れる。5メートルのさくを飛びこすのに7メートルも身体があがる。自分でもアレヨアレヨである。思いがけない。自分でビックリである。

 そういうものに、君の人生を組み変えて見ないか。
 今までどおりでは、もういい加減、生きるのにアキアキしているのではないかな? 人生、生きるに値しないと、どこかで囁く者があるのではないか?
 そうならば、どうだ、ここらで、灘の生一本、金無垢の「新人生」を創り上げてみないか。それは出来る。今からでも出来る。この今、この「今」という一字をにらんで、そこから出来る。やれる。やろう。
 無一物中無尽蔵−−その通りである。物も金も職も、健康も愛情も尊敬も、なにからなにまで、天の花園がすっぱりと君のからだを包んでくれる。早くそうなりたい? いや、それは了見ちがいだ。まず自己点検せよ。惜しそうに何かにシガミついているのじゃないかね。そのワラシベを指から離せ。ワラシベだ。たかが1本の藁くずさ。それを後生大事に−−まあまあ大変なことだね。
AZの人間革命
17 打て われを
 「艱難汝を玉にす」という言葉があるが、二十代になめた苦労が並たいていでなかた私は、いつしか苦を嫌い楽を迎える心境になって行ったようだ。
 松木草垣(そうえん)女史に会ってからというもの、私はこの自分の行きかたに、根本的な反省の光を向けざるをえなくなった。
 まことに遭いがたき人は、人生開眼の師である。上には上があるというが、満天下一人の敵なしとうそぶいていた私にとって天人女史(草垣さんの別名)の出現は驚天動地の出来事であった。
 私も一個の武芸者、剣を交えずとも、対座したのみで相手の器量はおおむね測り知る知ることができる。人の心肝を見抜くこの眼力は、ここ数年とみに冴えて、たいていの場合一戦をまじえる必要すらない。胴にすきがある。右肩にゆるみがるとみて取るだけで、こちらから頭を下げて引き取ってもらった。
 戦わずして勝つこの兵法は、ただ一途に己の心境を空しくし、塵の一つもとどめぬよう