も、物欲の権化になった四十女もいない。総じて、叩かれてふくれっ面する人間どもはいない。
 みんなカラッとしている。みんなサッとしている。みんなニコニコしている。バイキン・コケ・キノコ・タムシ・インキン−−そういったたぐいがきれいさっぱり清掃された世の中。いいな、めっぽういい!
 ひたいに八の字寄せて、おごそかに聖書仏典をひもとき、断食して栄養失調になり、夜は祈りすぎて不眠症になる。修養のためとあって、言いたい文句もハラに溜め、美女を見れば下を向き、百万ドル道に落ちてりゃ一目散に逃げる。教会では牧師に地獄行きだぞとおどかされ、家に帰っては父母のお説教に涙する。そういうのはみんな、今までの世界では上等とされてきた。人から尊敬され褒められるために、みんながそうやって無理してきた。
 だが、そろそろそんな時代もオシマイに近づいている。
 そして、アチラのほうにあったはずの「真理」がいつのまにかコチラのほうに移っている。おケント違いを探していた人は、くたびれもうけをする。
 以上“爆弾の歌”をおわって、次にAZの爆発力テストの実験記録をお目にかけることにしましょう。
 これは、AZ中央事務所の看板を作ってくれた大湯照夫(おおゆてるお)さんの手紙である。武蔵野市吉祥寺2115に住む十九歳の若武者。
AZの人間革命
 親愛なるリンサン
 整体協会でタマシイのはじの方をちょっとつつかれ、“AZのスブド”“AZの教祖”とつづけてゆさぶられたため、ぼくのタマシイは急速に開きつつあるようです。
 整体協会では身体の方が大そうじされましたが、AZのゲキ薬によって、タマシイがひさしぶりに手足をのばしはじめました。
 天国にいるような喜び(ミゾオチのつっかかりがなくなり、心の底からワクワクとこみ上げてくる)と“常識”でかためられた現実とに交互に洗われながら、進歩してゆくようです。
 前々からバクゼンとわかっていたのですが、『AZのスブド』を読んでハッキリしました。
 下腹にグッと重い安定したもの(石のようにガッチリと動かないものではなく、水にうかび、波が来てもひっくりかえる事のないウキブクロのようなもの)ができ、それがだんだん発達すると同時に、何もかもがメンドクサクなり、何もしたくなくなって、8月23日の誕生日には最高潮に達したかと思われました。
 7月の中旬から、「8月には何か起こるな」という予感があったのですが、地軸の大変動が起こるのかと思い、タマシイの大変動には気がつきませんでした。
 睡眠時間はデタラメになってしまい、しまいには夜と昼が逆になってしまったのですが、毎夜、皆が寝静まった頃、瞑想にふけった事がラティハンのかわりになったのかも知れません。時には動物の霊がのりうつったかと思いどうしようもない恐怖におそわれたり、神がすぐそばにいて、大いなる祝福に心が満たされ、感ゲキしてなみだを流した事もありました。
 高校2年の頃、円盤の本を夢中で読んだときも、同じような事を何度も経験しましたが、いつの間にか忘れそのままになってしまいました。
 今は、性質が外向きになり、以前のような細かいめんどうな事はできなくなりました。時がたてばまた内向性になるだろうと思っていますが、やる事為す事みな荒っぽく(ぼくとしては)、オートバイにのってもマッハ族そこのけのスピードで、このあいだ(リンサンがスクラップの仕事をやった“S”の日−−スピードもSです)も通行人をだいぶおどかしてしまいました。石神井公園へ出るところを大泉学園駅へ行ってしまったり、燃料コックがしまっているのに、ガソリンがなくなったと思い込んで、ゴロゴロ車を転がして歩いたり、まったくおかしな事ばかりです。
 道路を横断しようとしている老人を急カーブで目の前を通り過ぎておどかしてしまったときは、ほんとうに申しわけないと思いました。当分のあいだ周囲の人はメイワクする事でしょう。
 スブドのラティハンはどんな事をするのかまだ知りませんが、ヘルパーのそばにいるだけでラティハンの状態になる事もあるのではないですか?
 18日の遠足のとき、電車の中でリンサンのとなりにすわっていたときも、AZ中央事務所で21日の夕方リンサンとイスにすわっていたときも、さかんに霊的波動(だと思いますが)を感じました。
 何か、だまっているのにググッとくるのです。別に動きたくなったり、声を出したくなったりはしませんが、たしかにふつうの状態とは違いました。
 最近、新時代の近い事をひしひしと感じます。ケイシーや宇宙人、キリストの予言が実現するのもまぢかいことでしょう。
 気のせいか周囲のあらゆるものが、グングン進歩しているように見えます。
 聖書の神の国についての予言も現実に見られるようです。
 今のぼくは、極度の喜びとかなしみに、くりかえし、くりかえし、おそわれながら、だんだん進歩して行くようです。
 初めは、ぼくのこういった行為が、母や祖母に心配をあたえ、ぼく自身も不安で仕方がなかった(今でも、いく分不安)のですが、『スシラ・ブディ・ダルマ』に「親が進歩すれば子も進歩し、子が進歩すれば親もまた進歩する」とあったので安心しました。この頃は母も仕事の面(孔雀印刷)で以前のように神経質に気をつかう事がなくなりました。ときどき家族のものと意見があわずにケンカする事がありますが、これも長くはつづかないと信じております。
 10月の本格的なオープンが楽しみです。
19 AZ的とは君的ということだ
 1960年10月24日、半月以上の西日本旅行を終え、東京に帰りつく。
 東京を出た6日ごろはまだ暑かったが、瀬戸内海の大崎上島(広島県)に渡った月半ばごろは金モクセイの香りが島中に満ちこぼれていた。熊本の帰り、阿蘇山を訪れたころはもう肌寒く、10月も末となると東京もすっかり秋だ。
 神戸では須磨の今橋敏子さんのお宅に一泊し、そのとき今橋夫人が使っておいでのパーカー61の使い心地をスバラシイと褒めたら、記念にとそれを下さった。与える時は惜しみなく、受けるときはイソイソと、というのが私のモットーなので有難くお志をいただく。この章はパーカーから流れ出た第一作である。
 旅中、ある人に出会って交わした対話からこの問題に入って行く。
 「そんなに面白い経験をお持ちなら、別冊のAZにでも何か書いてくれませんか?」
 文章家のQ氏は、あごひげを撫でながら、