「しかしね、AZスタイルではちょっと書けませんな。あれは面白いとは思いますが、私とは異なる世界ですから、私がAZ的になろうと気ばると、私らしさが消えてしまいますよ」
 「アレ?」と私は、いささかたまげた。
 「Qさん、AZというのは、あなたらしさと別の所にあったのですか!」
 「それはそうですよ。AZ的なものの考えかた、AZ的な生きかた、AZ的な文章−−それはみんなリンサンの個性から出て、それが感染力を持っているために、沢山の人々、リンサンのいうところのAZ同胞たちがそれに感化されて行っているのを見ていますからね。」
 私らしさ、リンサンらしさ−−それがAZ的と規定されたことは、心外であった。それで、私は次のようにしゃべった。
 「私に私らしさが残るのは仕方ないかもしれませんが、私はAZを私個人の独占物にしたくないんですよ。それは判ってもらえるかしら? たいていの教祖は、そのグループの物の考えかたを統一してしまいますね。ことばの使い方まで似てくる。それはヤリキレヌと私は思っているんです。AZからはリンサンのニオイを抜き去ってしまいたいというのが私の本心ですよ。私はサルマネを歓迎しないし、小型のリンサンが何百人世の中に現れても仕様がないと思っています。」
 私がAZの伝声管を以って自認するのは、みんながみんならしくなる。AさんはAさんらしく、B君はB君らしく、C嬢はC嬢らしくなっていただかないと、AZの存在価値はゼロになってしまうんですからね・・・・・」
 「フウン!」
 とQ氏は意外だという表情をみせた。
 「リンサンはAZという運動を通して、自分の共鳴者を沢山作りたいのとちがいますか?」
 「いいえ、いいえ」と私は否定した。
 「私はね、各人が各人の“底”をつき止める努力のお手伝いをしているだけなんです。
AがAらしく、BがBらしくなるようにとさっき言ったのは、各人にめいめい自分の“魂”を発見してもらいたいということなんですよ。だから、AZ的人間変貌のプロセスは、まず第一に、ミソはミソくさく、クソはクソくさくなる。ネコはますますネコらしく、カメレオンはますますカメレオンらしくなる。それが終わらぬと第二段階に入れません」
 「第二段階というのは?」とQ氏は反問した。
 「第二段階は、その人が魂の表層を突きぬけて、もっと奥に入ることです。譬えて言うと、最初は直径何尺かの井戸から入るんですが、奥にもぐるとそこは長い広い地下水の道があります。それは網目のように複雑だけれど、全部が一つになっている・・・・・」
 「共同無意識とでも言ったものですか?」と学のあるQ氏は注釈を加えた。
 「そうね、そう呼んでもいいでしょう。とにかく奥にもぐると、ABCD・・・の差別がなくなる一味の世界があります。それを・・・・・」
 「AZと呼ぶ、と言うわけですね」
 とQ氏は先廻りした。
 「ブラボー! その通りです。じゃあ、AZ的というのは、まずQ的であるということも、お分かりですね」
 「うん、まあ分かるね」
 それで対話はおしまい。Q氏はきっといつかは大いにQ的なもの、つまりAZ的なものを書いてくれるでしょう。しかし、最後に少々皮肉を言わしていただければ、Q氏はAZと体当たりして以来、何が真にQ的であるか、QのQたる所以(ゆえん)がボケてきてしまって、Qの発見を新たにやり直さねばならぬという事態に入っていることを、私は見抜いたのである。
 人が堂々とその人らしくなる、ということは案外にむずかしいことだ。それは一番ラクな道なのだが、大半の人はこの道を往かない。QはむしろRやPの真似をしていたほうが呑気にやれると錯覚している。そして、自分ならざるものをアクセサリーとして着用に及んでいるうちに、自分を見失ってしまうのである。自己喪失は一つの「人生病」である。詩人ヘルマン・ヘッセはこの病気を快癒させようとして、『デミアン』という処方箋を書いた。文庫本でもいいから『デミアン』を一冊買って読んでみてください。それから『AZ』を読み直すと、君の理解は百倍千倍になるだろう。
 AZ的とは「君的」ということだ。
20 ゾーのリーディングから見たスブド
AZの人間革命
 米国デラウェア州のジョージ・ニッカーソン(George Nickerson 120 Kenmar Drive, Newark, Delaware, U.S.A.)は、その妻ゾー(Zoe)の超心理能力を中心に『IS』という季刊誌を発行している。
 ゾーはまだ三十代の若さであるが、エドガー・ケイシーと非常に似かよったリーディングを出している。ケイシーが故人であるのに対し、ゾーが現存の人であることはわれわれの当面の問題を解決しうるという点において興味ぶかい。私の個人雑誌『AZ』と『IS』は姉妹誌のような間柄なので、これからも『IS』の記事を邦訳して発表することを考えている。ニッカーソン氏はこの点快諾の意を表されているので、将来両誌の提携はますます緊密になると予想される。
 『IS』の1960年6、7、8月合併号に、スブドに関するゾーのリーディングが出ている。スブド会員にも、また会員外の人にも、スブドが他の団体でどのように評価されているのかを知るのは、何かの参考になると思うので、その要旨を訳出してみよう。答とあるのは、ぜんぶサマディ(Samadhi-三昧)に入ったゾーの発言である。
問 スブドについて何か話して下さい。
答 スブドが何であるか言う必要はない。スブドの霊感は、人間が進化するにはまず静止点に達し、「真我」の深みに耳を澄まし、その真の霊的表現を発見することが絶対に必要であることを熟知している実体(複数)から発しているのである。このインスピレーションの本源である実体は、人間が裸の「真我」に到達してその霊的真実を見出すことができるようになるまえには、想念や障害物や習慣を投げ出すことがいかに大切であるかを、鳴り響く声で人々に知らせているのである。スブドはまた、自我(ego)をその霊的大我と宇宙的神聖原理とに融合させるために、瞑想が大きな価値をゆうすることを理解する太古以来の知慧を包含している。スブドの最大の価値は測り知ることができない。その価値を最小に見つもっても、スブドによって物質界の人間が自己を静かにしようと試みることは、かれがになう物質上の重荷にもかかわらず、すくなくとも人間として“こころみる”という義務を果たさせる功績がある。
問 スブドは誰にでも助けになるものですか?
答 人によって効果の程度が異なる。この門から入るものは、「真我」を見つめることの意味を理解し体験するために、すくなくとも協力しようと試みることが前提になる。