は次のことを明らかに知っておらねばならぬ。
 呼吸は生きている有機体全活動の基礎となるものであるから、その方法の如何によって、大きな益を与えたり、逆にきわめて有害であることを知らねばならぬ。それは、
 (1) 物的体 (body-physical)
 (2) 心的体 (body-mental)
 (3) 霊的体 (body-spiritual)
 である。
 (1)の「物的体」は三次元の物質界において必要な機能をそなえた体、いわゆる肉体である。
 (2)の「心的体」は、感情・情緒を左右する体であって、人間の行動を自己・他人・事物・環境と結びつけるものである。肉体感覚では心の働きをとらえることはできないが、別の人の心によっては内面的に察知しうる。
 (3)の「霊的体」は一般に「魂」と呼ばれるもので、不可視の永遠なる存在である。
 以上三つの「体」は一つとなって、人間のなかに存在する。簡単に表現すれば、この三つは身・心・魂と並べることができ、それは父・子・聖霊が三位一体をなすようなものである。
 これを自覚することは、心の修練、呼吸の統整によって可能である。なぜなら、肉体にはライデン中枢というものがあって、この中枢において魂は自己表現をし、その性質に応じた創造活動をするからである。
 呼吸法によって、この中枢を拡張することができる。そして妊娠時に定められたその人本来の道を通って進み、肉体の七つの中枢を開く。すると、これらの中枢は放射線を発し、肉体の有機組織に影響を及ぼす。
 この「生命力」が拡大すると、それはまずライデン腺から出て副腎を通り、上昇を始め、松果体に達し、情緒を支配する諸中枢にいたる。
 このようにして実体(人)は、かって存在したもの、またこれから生ずることと通じ合う状態になる。なぜなら、肉体意識がゆるめられて、宇宙意識(普遍意識)が開けるからである。
 ここで注意しなければならないのは、このような普遍意識の状態に入って、外部のものの支配をゆるすと、有害な結果を生ずることがあるという点である。キリスト(救済原理)の宇宙意識でもって自己を包み、その力で導かれるようにするがよい。
 このことに留意すれば、獲得した霊的能力を建設的に用いることができる。くり返すが、まず汝の「主」を選べ。今、汝のなかに生きています神(全知・全能・全在の唯一者)にのみ導かれる。これをおろそかにすると汝は縛られたもの、低き者の奴隷となるであろう。
 リーディングは言う。
 「霊的同調の能力は各魂の生得の権利である。これを建設的に用いるがよい。汝の地上体験における有益な力として用いよ」
 そして“急がばまわれ”こそ、このような霊的修練に不可欠の態度であると、リーディングは教えている。まず自我の欲望を十字架にかけて抹殺することである。他に立ちまさりたいために霊力を得ようとするが如きは邪道であって、播いた種子はみずから刈り取らねばならぬ。
 スブドにおいては、まずこの自我の願望・意志・欲求そのものを「神」の前に投げ出し、動機そのものを浄化することから始まる。そして魂そのものに教えられて、各人に最も適した呼吸法をやらされ、また習いもしない複雑なヨガの体位を取らされるのは、不思議といえば不思議である。
AZの人間革命
22 紀州南海の哲人
 人は遇いがたきもの。『AZ』を始めてから、思いがけぬ人々との出会いは、この仕事の収穫の第一に数えるべきものであろう。
 紀州海南市多田248大父母苑の延原大川氏は大川道児とも号し、『大父母苑』を中心に、心清き人々を周囲に集めておられる。
 大川氏の小著『天地大父母様』のあとがきに、“小さき歴史”と題して、氏の略歴が述べられているが、それによると、氏は明治43年岡山に生まれ、10歳ごろからすでに人間の由来に想を馳せ、12、3歳には死の意識に取憑かれ日夜煩悶したそうである。
 氏は哲人の面影と同時に、詩人・歌人として完成の域に入っておられるが、歌の道に入られたのは小学生の時である。中学生になって、社会主義に強く影響され、放校処分にもあったが、青年期は無政府主義運動に身を挺し、昭和7年には失業者煽動のカドで投獄された。
 24歳母堂の死に遭って、苦悶と反省期に入ったが、禅僧池田慈雲に触発されて坐禅をはじめたりする。しかし、氏の人生を根本から変革したのは黒住宗忠の発見であるようだ。やがて釈尊、老子、孔子の東洋思想の源流に深く心を潜めるようになり、英雄的昂奮状態から無名の自足と平安に移る。「慈眼の人」という氏の愛用する言葉が、氏の目標となり、農耕をたつきの業とし、静かな求道開眼の生活が始まった。
 やがて氏の周囲には三々五々として、氏の人徳に吸い寄せられるが如く、求道者の群れが集まって「大父母苑」が生まれ、1960年の夏には「苑の会」というつどいも出来た。

 延原大川氏の宗教は、伝統にとらわれざる天地大父母に対する信仰である。前述『天地大父母様』の序歌から次の3首を抜き出してみる。

  よきようになされくだされ大父母や
   よしあしともにみこころのまま
  よしあしも生死もこえてちちははの
   みふところぞとおもふ安けさ
  ただたのむよしあしをこえ生死を
   こえてましますそのちちははを

 父の厳しさ、母の慈しみをあわせもった天地主宰の絶対者への讃仰と感謝の心は、氏の著作・詩歌をつらぬいて流れる一道の光である。
 私は過去三十有余年、この世の父母に対し不孝の限りをつくし、その罪業の一部は『AZの教祖』に写され、恥をさらしている。
 大川氏の「大父母讃歌」と題する次の数首を目にしたとき、私の心のなかに湧然として己が身の罪を悔いる念が渦巻き上がった。私と大川氏とのつながりは、実にこの瞬間からと思う。氏が大父母と呼ぶとき、私の胸には肉親の父母のおもかげが浮かぶ。
 「われ不孝者なり」と認識し悔悟することがそのまま解決になるとは、私も思わぬ。父母と私の関係は、今生の私に課せられた業因上の問題である。それはそれとして−−

 不可思議の見えざる父母を慕いつつわれ今天地大父母と呼ぶ
 神という言葉も既に古くなりぬわれ今起ちて大父母と呼ぶ
 神となり仏ともなりひじりとも凡ともなるは大父母の神