つづいて同書26頁に、
 「さればわが父母は宇宙の象徴、天地の権化にして、むつきの中より、われらを育てたもうたのである。人より外に神仏なしと云う。中にも父母の位は、いわゆる神仏にも勝るが故に、かの蓮如上人のみ歌にも、
 かみほとけおがまぬ先に親おがめ神もうれしと思召すべし
 と。あわれ、尊き歌の心にもあるかな」
 と出てくるのは私の胸をえぐる。
 AZ同胞のなかにも、みずからの父母と不和とまで行かなくても、神仏を讃仰するほどのなつかしさで肉の父母を仰ぎ見ることのできない人々は沢山いるのではないか。私は親不孝者としての自分を投げ出し、天下のさらしものになし、衆人の土足に踏まれにじられして、少しずつはまともな人間になろうとしている。
 私の内面生活はめまぐるしく変貌し、脱皮に脱皮を重ねてゆくうち、その明暗のうつろいは不思議に私と父母との関係に反映して行くようである。ある時期は母に親しみ父を攻撃する。宿世の迷妄のほどけ消えてゆく姿には相違ないが、なにゆえに父母ともに差別しがたき尊貴の二身一体仏として礼拝しえないのであるか。
 同書79頁に“子に与うる歌”として集められた歌のなかに、

 より強くそむきし子ほどより強く親を思うかあわれこの道
 形こそそむきしことも多からめ心はつねに親を恋い泣く
 罵れど心のおくのおく底は涙たぎれり子らよ吾子らよ

 右(上)の3首を読んでは、うつし世の雲や霞のかなたにおぼろに輝く真如の光をかいま見る心地がする。子をいつくしむ親の心も、不孝の所業を重ねつつ親を慕うこの心も、ふたつながら、肉もてる身の妄念にさえぎられて、ひそかに涙ぐんでいるのであろう。
 大川氏は次の大杉悟菴氏の歌を紹介している。この三首の哀切の響きのうちに、私もこの稿をとじようと思う。

   父母を想う
 コスモスの花咲きくればさびしさに父のみこいし母のみこいし
 ほとほとと雪降る夜は亡き母の菰あむ槌の音する如し
 美作(みまさか)の讃甘(さのも)の村の後谷(うしろだに)の母がおくつきに荒風吹くな

(附記) 延原大川氏の著書紹介
 心のふるさと    240円 池田書店
 一日一善      150円 同
 詩訳菜根譚     150円 同
 真人宗忠      160円 紫雲荘
 天地大父母様   100円 大父母苑
 五分間修養     180円 池田書店
 月刊「大父母苑」1部20円 大父母苑
     連絡先 紀州海南市多田248 大父母苑(振替大阪10219番)
23 最初のチラ
AZの人間革命
 チラリズムではない。第一感の話である。
 世間では、第一印象に従えばまちがいないさとか、いや第一印象ではいつも狂うよという人もいる。みなそれぞれ自分の体験をふんまえてモノを言っているのだから、両方とも正しいと言えば正しいのだが、いったい第一印象とは何か、どういうふうにでてくるか、これを知らないでアレコレ論議をしても始まらぬ。
 第一印象−−このコトバはすこしたるんでいる。私は「第一感」という言葉を使いたい。平たく言えば「最初のチラ」である。印象というと、面的な感じがする。第一感というと点的な感じがする。この違いが大切だ。
 失敗例をすこし検討してみよう。
 ある未亡人がいた。かの女の亡夫はものすごいサディストで、結婚生活二十年ナマ傷のたえまがないほどいじめられた。かの女は夫が死んでガッカリするどころかホッとしたのである。それほど夫は暴君だったのだ。この恐怖の対象であった男は、ワシ鼻で、口ひげを立てていた。それが二十年間、あわれな妻の意識にしみついていたので、夫が死んでからあとも、ワシ鼻と口ひげの男がくるとゾッと身の毛がよだつ癖がぬけない。
 未亡人は喫茶店を経営しようと思っていた。それで資金主を探していたのだ−−代償を要求しない純粋の投資家を。かの女の伯父の紹介で木村という資本家と会うことになった。かの女はいそいそと銀座のレストランに出かけていった。約束の時間、伯父といっしょにあらわれた木村氏の姿を見て、かの女はビリッとした。言うまでもなく、その男はワシ鼻と口ひげの紳士だった。そして未亡人はうつむいたまま、伯父がいかに取りなしてもイエスを言わなかったのである。話は破れた。
 こういうのまで引っくるめて、世間では第一印象と呼ぶ。しかし、この例では、第一印象は、かの女の皮相な表面意識から出ている。要するに、かの女の過去にまつわる好き・嫌いの感情がとびだしただけのことである。第一印象というもおこがましい。木村氏は、南方に散った戦友の未亡人を五人も六人も救った篤志家だったのだが、このワシ鼻・口ひげ恐怖症患者には、そんなこと見抜けなかったのである。
 第一感はそんなものではない。もっと深い所から出て来る。稲妻のようにサッと出る。これは万人共通の能力である。ところが、これをキャッチする感度が万人万様なのだ。そして大半の人がこの「宝物」をタカラの持ちぐされにしている。
 第一感はだれにもある−−これをまず呑み込んで自信をもつこと。イヌやネコ、ハトやトカゲでも持っている。それは直観力と同じものだ。第一感は「魂」から出てくる。「心」から出るのではない。心を突き通して、心を材料にして、その奥から出てくる。「魂」は何でも知っている。星ハ何デモ知ッテイルどころじゃない。魂はあなたのドマンナカにある。何億光年もかかりゃしない。
 第一感の特徴は電光石火、時間を要しないということである。推理や思索は時間がかかる。第一感は全く別の「根」から出てくる。時間がかかったらニセモノと思ったらいい。
 ところが、平素澄心の心がけのない人の場合、この「最初のチラ」はきわめて影がうすい。出ることはでるのだが、いともカソカに出る。だから十中八九の人はこれを見逃す。そして、次に出る第二感(これはウソだ!)にとびついてしまう。第二感は心の作用だ。その
人の好き嫌い、性質、癖、傾向、主義、主張に大いに関係がある。これはよどんでいる。
平面的に出る。スカッとしていない。ネトネトしている。妄想のだぐいである。
 心がすこし澄んでくると、あとになって、そういえばあの時、初めにチラと浮かんだのが