本当だったのかと、思い出し気づくことがある。しまったと思いながら、次に性こりもなく、何度も何度もこの「最初のチラ」を見のがしてしまう。見のがすのがクセになっているからである。
 第一感を鋭敏にキャッチする方法を、みな毎日の生活で心がけるべきである。瞑想や精神統一やクリスタル・ゲージング(水晶球凝視)やラティハンをすでにやっている人でも、この日常的方法は役に立つ。
 たとえば、人のいうことを本当に聴く修行。吸い込まれるように耳を澄ます。相手と一つになるぐらいに。そうすると、向こうが言わない先に、言うことが分かってきたりすることがある。このごろ私にもこういうことが多く、奇妙な気持ちである。
 「こないだ浅草を歩いていたらね、この皮手袋エラク安く売っているんだ」
 「ホウ」
 「いくらぐらいだと思う?」
 実はホウと合づちを打ったときに既に、750という数字があたまに浮かんでいたのだ。私はこれを口に出すときもあるし、言うとその友人の「愉快さ」を傷つけると感ずると、知らんふりして黙っていることもあるが、とにか奇妙に分かる。分かるときは分かる。なぜそうなるかプロセスはわからぬが、相手の心がこちらの鏡に映るようにして分かる。
 素直といおうことが、第一感をつかまえる最大の条件である。たとえばクルマにのってどこかに行く。運ちゃんに、「亀の子町を廻ってくれ。あちらのほうが早いから・・・」」と言いおいて本を読んでいると、運ちゃんそれを聞きのがしたか、鶴の子町のほうに飛ばしている。
 「チクショウ!」
 と思っているうちに、案の定、タクシーはものすごい車の行列に「はさまってニッチもサッチんもいかない。
 「だから言わんこっちゃないんだ!」
 と怒鳴るのは落第。こういうタイプの人には、第一感の「宝物」は使いこなせない。
 すんだことはすんだこと。マチガイはマチガイと、いつも「今」から建設的にやり直す人(そこまで出来た人)は、自分の命令など忘れて、ノホホンと、
 「こむなあ、この辺は・・・・・」
 と独りごとを言っていることだろう。
 運ちゃん黙ってござるが、内心お客さんが初めに言ったことばを思い出し、シマッタとホゾを噛んでいるのかも知れない。それを責めないのが大人(たいじん)の器量である。
 素直さは大人物の徳。
 第一感は素直さのごほうび?
 そろそろコツがわかったかな?
AZの人間革命
24 ラーマクリシュナのクンダリーニ論
 これは21章のつづき。
 印度の聖者ラーマクリシュナの伝記『仏陀再誕』(内垣日親著)には、全くいろいろ教えられる。その第三・四合本(300円送料30円 堺市浜寺諏訪森町東3−265 ラーマクリシュナ学園)の62頁から10頁くらいにわたって、クンダリーニに関する説明が出ている。それを紹介する。
 クンダリーニは宇宙電磁力、または精神の火と訳されているが、これは脊髄の下に蛇のようにトグロを巻き三角形になっている。
 ラーマクリシュナの弟子ナレーンは、まず呼吸法によってクンダリーニを覚醒させる方法を述べる。
 「宇宙意識と体内のクンダリーニとが触れ合うことによって、素晴らしい大智者となることもできるのであります。体内には、宇宙磁力と関係のある最も大切なものが三つあります。それをイダ、ピンガラ、スシウムナといいます。そのイダとピンガラは共に脊髄を通り、両方の鼻腔にきています。スシウムナとは脊髄の中央を通り、“梵の座”とも“千重の花弁をもつ蓮の花”ともいわれる松果腺相当部に達します。スシウムナは、一つは脳下垂体相当部に入り、一つは松果腺相当部すなわち梵の座に入ります。」
 つぎに、七つのチャクラ(神経叢)の説明に入っているが、これは同書に就いて読んでもらうことにして、もっとも大切な、ラーマクリシュナ自身による補足のほうを転記しよう。
 「じゃ皆さん、今ナレーンから説明のあったように、脊髄の下に眠っているクンダリーニ(精神の火)を上の方に上昇さす事が大切です。この上昇運動には5種類あります。
 一、走る蟻の運動。 二、蛙跳び運動。 三、蛇行運動。 四、あるいは上にあるいは下に飛びまわる鳥。 五、樹から樹へと遠くへ飛躍する猿。以上の五種類です。呼吸や瞑想をしていますと、最初足から頭へかけて、血液がチクチクさすように感じることがあります。次に焔の蝿、光り輝く霧、熔けた金属などが見えることがあります。私は胸が赤くなり、煉瓦色と金色のあとがのこりました。それから体中焼けたようになったこともありました。
 ある日のこと、神クリシュナに対する熱烈な恍惚に浸っているとき、皮膚から細かな血がしたたり落ちたこともあります。皆さんは私のように、血が滴り落ちるような真似はしないでください。
 また別の場合、血色が金色に変わったことがありました。そして胸にかけてある金色の護符と区別がつかないほどになりました。その時は体から光が発するかと思われたほどです 。」
 このあと、ターマクリシュナは、「呼吸なき呼吸、冥想なき冥想」のことを話す。聖者はエドガー・ケイシーと同じく、みだりにこの呼吸行にふけると、危険を伴うことを教えるのである。
 「そこで一つ注意しておきますが、それは究極の上昇、第七段(松果腺相当部)までクンダリーニを上げることは、決してやってはなりません。あまりにむずかしい呼吸は現代人には適したものではありません。今日では、人間は非常に弱くなっています。だからこの行にたずさわることは大きな危険を伴わないわけにはゆかないのです。それに生命も短いのですからね。またそうすることは少しも必要ではありません」
 ラーマクリシュナは、敬虔の念をもって冥想し、神意識を開き、技術的な呼吸や冥想でない遥かに秀れた呼吸と冥想を発見する道があると教える。
 聖者は技術的ヨガをこえたカルマ・ヨガとバクチ・ヨガを説明する。
 カルマ・ヨガは、行動のなかに神になる秘密をつかむ道。
 バクチ・ヨガは、神を信じ愛して、神になる道。
 弟子は問う。
 「それでは昔の苦行者のようなムチャクチャな苦行をしなくてもよいのですねえ」
 「そうです。主の恩寵は、実現の道(神になる道)を容易にしました。私たちが周囲の人々に注ぐ愛の力を、純また純にすることです。真剣に妻を、夫を、他人を、その他のものを愛することです。それが第三の目を開くもとになるのです」
 ラーマクリシュナは単なるヨガの行者ではなかった。かれは地上の多種多様な諸宗教の立場をそれぞれ認め、どの道も神にいたる平等の道とした。さればこそ、かれはある時期には回教僧の法衣を身につけ、アラーを見神したし、またある時はキリストの霊姿と合体し