人みな否みたれば、ペテロおよび共におる者ども言う『君よ、群集なんじを囲みて押しせまるなり』。イエス言い給う『われに触れし者あり。能力(ちから)の我より出でたるを知る』。女おのが隠れ得ぬことを知り、おののき来たりて御前にひれ伏し、触りし故とたちどころに癒えたることを、人々の前にて告ぐ。イエス言い給う『むすめよ汝の信仰なんじを救えり、安らかに往け』」
 イエスは明らかに或る種の不思議な「ちから」を持っていた。それは一種の「物質」または「エネルギー」のようなもので、一つの場所から他の場所に移動する性質のものだ。イエスはその力の一時的減少を感じて、するどくそれを指摘したのである。周囲の人々の否定も役に立たぬ明らかな「事実」の確認である。
 イエスはもちろん「力」を盗まれたことをとがめたのではない。逆に、心からその女を祝福して立ち去らせた。大切なのはその時の言葉「汝の信仰なんじを救えり」である。
 この場合の「信仰」をわかりやすく説明すると、「百パーセント受ける気持」である。決して修行や長年の信仰生活でつちかったような信念ではない。世間には、コチコチのカツオ節のようなクリスチャンがいる。こういう人たちを、世間のワイワイ連は、アーメンソーメンヒヤソーメンとか言って軽蔑する。あるいは敬遠する。
 いわゆるクリスチャンが人々にうとんじられるのは、無理のないことである。信仰のヨロイを身につけたクリスチャンは、人から罵られると、かえって自分の信念という亀の甲にもぐり込んで、前以上にコチコチになる。そしてコチコチになればなるほど、キリストに近づけるのだと思い込んでいる。自分の頑迷さに気がつかない。
 イエスご自身はそんな信仰態度を教えなかった。弟子たちが「天国で偉大な人は誰ですか」と尋ねたとき、イエスは幼児を呼んで皆の中に坐らせ、それを示しながら、
「まことに汝らに告ぐ、もし汝らひるがえりて幼な児の如くならずば、天国に入るを得じ」(マタイ伝第18章)と教えた。
 またユダヤで、人々が自分の子供たちを連れて来て、イエスに祈ってもらおうと沢山つめかけたとき、弟子たちは師をわずらわせてはいけないと気を利かして人々を叱った。そのときも、イエスは、
「おさな児らを許せ、我に来るをとどむな、天国はかくのごとき者の国なり」と言った。(マタイ伝第19章)
 イエスと子供とは、離しがたい関係にあった。簡単に言って、イエスは30才の子供であった。子供の無心・純真・無邪気をそのままに生きていた。
 さきの、イエスの御衣にさわった女も、この子供の無心さを持っていた。イエスを慕い、このかたに触ったら自分の苦しい病気は必ず癒されるという確信をもってさわった。
 ケネディ大統領が選挙前に全国遊説をしたとき、各所にタッチャー族という女たちが沢山出てきたという。女は感覚の性であるから、理屈ぬきに、尊敬する人の身体にタッチしたい本能をもっている。血漏が治った女にもこのファン心理があったかもしれない。しかし何よりも彼女には「百パーセント受ける」心の真空状態があった。これをイエスは「汝の信仰」と呼んだのである。
 真の信仰は、そのようにやわらかいものでなければならぬはずだ。信仰とは堅いものだと思い込んでいる人は、早くその「感違い」を改めなければならない。和らかく、軟らかく、果てしなくやわらかく、と心がけねばならぬ。
 そのやわらかさが、そのまま幼児の純真とつながるのである。イエスが真理を説いたとき、大人たちは一語も聞きのがすまいと身体を硬くしていたにちがいないが、子供たちはキョロキョロまわりの人たちの顔を不思議そうに眺めたり、そこらの花をつんだり、あるいはイエスの膝に這いのぼったりしていたにちがいない。
 そして、そういう子供たちが、大人の百倍もイエスの霊気を全身で吸収したにちがいない。
 以上、私は受ける側のありかたを説明した。次は、与える側、または奪われる側の話しである。
 イエスは人間蓄電池のような存在だった。どこかで人間充電の秘密を知り、たえず満潮のようなからだを持って人々のあいだを歩いた。沢山の人を導いた日の夜は弟子たちが眠りこけている深夜でも独りしりぞいて「充電」をおこなった。
 「充電」とは祈りである。受けることである。イエスが天なる父から豊かに「力」を受けたその秘訣は、実は、あの血漏の女がイエスから「力」を受けたのと同じものだった。イエスも孤独の祈りの場にあっては、あの女のように、また子供たちのように、無心に心を開いてサンサンと降りそそぐ天の霊気を受けたのである。
 すると、イエスは同じ「力」を一種のリレー作用で地上の悩める人々に流しただけの一個の「管」だったということがわかる。人々は直接に「天なる父」から受けることができなかったために、肉体をもったイエスから受けたのである。
 受け、そして与える−−この単純なプロセスのくり返しで、キリストの教えは二千年かかって地上くまなく伝えられた。
 受ける者になれば、いやおうなしに与える者の役割をさせられる。これは天地の理法である。与えるのが義務だからというような、不自由なものではない。溢れたら流れ出すだけのことである。聖書をよむと、イエスが実に豊かな「充溢」の状態で地上を歩いていたことがわかる。
 われわれの魂が、一人の例外もなく求めているのは、この「充溢」である。われわれの「心」はたいていこの点の「充溢」を知らず、見当ちがいの方向に、金銭や地位や健康その他朽ちるベき地上の幸福を求めてアクセクしている。そしてその結果、幼児期にだれしも持っていたあの「充溢」をだんだんすり減らして、痩せてヒネこびた大人になっている。ビールでふくれた腹をかかえて、札ビラを切っている巷の紳士を見るがいい。ああなんというその痩せかたよ。みすぼらしさよ。肉体の肥満と反比例して、魂は餓死寸前だ。
 AZの目的は、言うまでもなくこの「充溢」の奪還である。
 ああ今までの方向はまちがっていたと悟り、180度の方向転換をすることを「回心」とか「悔い改め」とか呼ぶ。人は祈り始める。充電を開始する。
 ある程度これが進行すると、自分の「充溢度」がわかってくる。自分の電圧がわかってくる。これを「高周波」と呼ぶ人もある。
 「きょう、わたし少し低周波らしいわ」
 と自分で気がつくようになったら、相当進んできた証拠だ。毎日、いや一日のうちでも時間によって、自分の「充電状況」が刻々変化しているのもわかってくるだろう。
 もっと進むと、イエスみたいに、ある種の人と会うと(話しをしたり、ちょっと目を交わしただけでも)ググッと自分の「電圧」が低下するのもわかってくるであろう。
 私も一時、身も知らぬ人が電車の向こう側の座席に坐って、不幸そうな、あるいは不快な顔をしているのをチラと見ただけで、心身の全体が苦しむのでやり切れなかった時代があった。都会に生きて、人々と接触するということだけが、たまらなく苦痛だった時がある。
 そのうち一種の免疫性を身につけてきた。自分の「電圧」が相当上昇して、ちょっとやそっと減少低下しても、「苦痛」という赤ランプがつかない状態になってきた。
 その状態は、たとえてみれば、ちょうど全身に厚い真綿をまとっているような感じだ。少々隙間風が吹いても、寒いとは思わぬ。
 不幸にして、電圧がその日少し低かったときに、隣りに非常にイライラした人がいたりすると、すくなからず影響されることも、ときどきあったが、その「苦痛」から逃れたい一心で、ひたすら「電圧上昇」に努めたのだ。
 そのうち、充分に自分の「電圧」が高いと、2、3分その人と話しているだけで、相手の表情がほどけ幸福になってくるのがマザマザとわかるようになってきた。それでも1日に
AZの人間革命