私が「表現」をしようと気ばっているうちは、仮面がどうしても出てくるし、私という私がなくならないから、私はだんだん表現をしたくない。寂滅をしてしまうようだ。
 三十代でもう枯淡の域に入りかかっているとしたら、この先四十代五十代で私はいったい何をするんだろう。おそらく何もしないんじゃないか。私という私は鳴りをひそめて死物化し、そこにただある「それ」になってしまいそうな予感がする。
 AZは時とともに変わってゆくから、私もとうとう行きつく所に行きつきかかっているが、ここまではあんまりついてくる人もいないだろう。
 私が本当に、「それ」になり切ってしまったら、もう文章なんか書かないかもしれぬ。「それ」は別に私に文章を書くことを強制していないようだ。また悩める人間がそこらじゅうウヨウヨしていても、「それ」は涙もこぼさぬみたいだ。
 「それ」の根本性質は非情である。「それ」は乾いている。もしかしたら、「それ」のドライ性が万病に効く霊薬なのかもしれない。
 すくなくとも、私は「それ」によって病気を癒されつつある。私の最大の病気は、私が私であることだ。それが治ってゆく気分は、何とも言えぬものである。
 当分は私も、モノを書きつづけてゆくだろう。私という私が尽きるまで−−。しかし、もうそろそろ「それ」が顔をのぞかせているから、前のものとはずいぶん違ってくるだろう。
 どうもこれは通じない文章だな。暗号みたいなものだ。
AZの人間革命
30 痴女論
 この章の内容をご婦人の友だちに教えてあげていただきたい。
 話の切り出しはこんなふうにするとよい。
 「変な質問して申しわけありませんが、あなたは電車内や人ごみで痴漢に襲われたことがありますか? 今はどうでしょう? 痴漢に襲われなくなったのは何年前ですか?」
 かりに3年前にバタッと痴漢の被害がストップしたとしたら、かならずその女性はそのころ大きな人生上の変化を経験していたはずである。
 ある場合には、間歇的に痴漢被害が始まったり止まったり、また始まったりすることがある。それが女性の内的変化に微妙に対応しているはずだが、当人はおそらく何も知らないだろう。
 単純に、自分の容姿がおとろえたから痴漢が寄りつかなくなったと思い込んでいる人もあるかもしれない。ところがさにあらず、である。現に、私の親しくしている五十代の女性は、ひんぴんと「イヤらしいこと」が自分におこることを報告している。かの女は決して豊満なタイプでなく、やせぎすの、むしろ冷たい知的な型である。そんなことお構いなしに、かの女も二十代のグラマーなみに被害をこうむっている。
 ご婦人に怒られるのを覚悟でいえば、
 “されたがっているから、やられるのである”
というのが本当だ。
 痴漢に付きまとわれるので、まだわたしもすてたものではないサ。ヤニさがっている(女性がヤニさがるという日本語はいいかな?)女性は、ここらで大いに反省するといい。痴漢を招く女性の名は、なんと「痴女」である。
 ものごとは何でも外と内と、実にうまくぴったりと対応して進行しているもので、痴漢の出現も決して例外ではない。おそれ多い例だが、聖母マリアがいかにセミ・ヌードで東京の殺人電車にもまれていても、「被害」は起こりっこない。類は類をもって集まるのであり、同気相引くのである。波長600にダイヤルを合わせても、ラジオ東京は絶対に聞けないようなものだ。
 痴女の状態を並べようか。
(1) かの女は性的な不満をもっている。女だから、自分から能動的に出る勇気はないが、何やら怪しげな「電波」を放送して、痴漢という名の「蟻」を集めている。
(2) 痴漢にさわられると、たとえ10分の1秒でも、ゾクゾクとして、内心喜んでいる。目でにらむにしても、相手の足を踏んでやるにしても、その動作のなかにチョッピリ「OKよ」が入る。痴漢はこのチョッピリのほうだけを受信して、やっぱりいいのかと得たり賢しこし喰いさがる。痴漢がしつこいのは、女性のなかの「痴女性」が執拗であるからだ。
(3) まじめな部類の痴女は、被害を受けてから自分自身を反省し、恥ずかしい気持になる。チョビッとでも自分が痴漢を「歓迎」したことが、ゆるせぬ気持になるのである。ケガラワシイ−−自分が汚されたという感じになる。しかし、自分が痴女であるという認識に達するのは辛いし、むずかしいから、いい加減のところでごまかしてしまう。
(4) またぞろ、自分では知らずに「怪電波」を放送する。
(5) 同調した男がまた、第二、第三の痴漢の役割を買って出る。
 こうやって輪廻循環果てしがないと、痴漢族の商売は“花ざかり”ということになる。
 オトコはみんな痴漢の性質をもっているとよく言われる。しかし、オンナも同じことだ。オトコの痴漢性は、臆病や道徳心や体面などで相当にブレーキをかけられ、外に出る率はだいぶ縮減されるが、オンナの痴女性はいやおうなしにベテランの痴漢を呼び寄せるから、ゴマカシが利かない。
 あなたの奥さんか恋人に、この種のことがおこったら、大いにかの女の「痴女性」をあばくがいい。女性はあまり意識化に得意でない。これは男の任務である。
31 一世紀前の友
 私の友は現代にすくない。
 七、八年まえはほとんど皆無という感じで、私は孤独地獄に喘ぎながら和漢洋の無数の書物を漁って、「同胞」を見つけまわっていた。中国には老子、荘氏、印度にはタゴール 、日本には盤珪、欧米にはだれだれというように、友の数は十指に余るほどになった。私はかれらと対話し、かれらの言い足りなかった言外の理を直感し、それを私のことばで代弁してやることもできた。
 六年前英人フセイン・ロフェと相識の仲になって以来、現在地球上に散在して同じ目標にむかって進軍している多数の戦友がつぎつぎと姿をあらわしてきた。『AZ』を始めてからは、この国にも何人かの心友があることを発見した。いまの私はそれほどの孤独感を味わっていないが、ギリギリの所に行くと、やっぱり自分は独りだなあと思うことはよくある。
 しかし、昔のように、孤独を異常な耐えがたい状態と考えることはなく、これは誰でもが持つ至極あたりまえのことと受け入れるようになっている。
 友とは頼るものではなく、自分の支えとして期待すべきものではなかろう。友に限らず、支えを必要とする者は、その支えが取り去られたとき転倒する。強い人間は、あらゆるものから手を放して虚空に宙ぶらりんになっている。そういう人間同士が、なにかの拍子