『AZ』 5号
 「ああそうそう、それでだ、オレは結局、実際になぐっちゃまずいということを悟ったので、あたりを見廻した。手もとが狂ったということにして、課長の机の上の花瓶を叩きこわすことにした。ヨイショ、ガチャンと花瓶はコッパミジンさ。ところがまずいんだな、オレの演技がうますぎたんで、課長のやつ本当に殺されると思ったらしい。キャツ、人ゴロシイとわめいてさ、非常階段のほうに横っとびに飛んでいったんだ。オレはアブナイと思った。というのはな、今朝オレが宿直明けであの階段を点検したとき、手すりがはずれて今にも落ちそうになっていたんだ。なにしろ5階だから、これは生命問題だ。オレはシュロナワを降り口に貼って“使用禁”の札をぶらさげといて、修理屋に電話したが、あすにならぬと手がすかないという答え。その階段に課長が突進してゆく。“使用禁”などという字が目に入るものか。オレは思わず叫んだ。『課長、あぶない、ストップ!』 ところが向こうは恐怖のあまり、オレの言葉をどう聞きちがえたのか、『ブ、ブンチン、そいつを投げさせるなアッ!』と悲痛な絶叫だ。おれは学生時代の修練がモノ言って、ものすごいスピードで机や椅子をとびこえ、課長の脚にタックルした。蹴球なみにさ。ギェーッと妙な悲鳴を上げてもがき廻る課長の頬けたに、2、3発平手打ち、やっとグッタリした課長に、この階段が生命取りだというわけを幾度も説明すると、なに思ったか課長は・・・」
 「そうそう、そこからボクも見ていましたよ」と給仕のタッちゃんが口を出す。「課長さん、涙だらけでリンサンにしがみついていましたね。『キミ、キミ、キミは命の恩人だよ。あ、ありがとう』だって。全くすばらしいラブ・シーンでしたよ」
 「ばか言え、オレはあのひげづらをホッペタにすりつけられて、オカマの悲哀をソゾロ感じたよ。みんな見ているしさ、照れくさいたらありゃしない」
 「でもよかった、よかった。あれで仲の悪かった君と課長は、永久の和解をしたんだからな。これはわが社の歴史に残る美談だよ。恩讐の彼方に、ヒシと抱き合う男と男、イイナア」と詠嘆したのは、ナニワ節の好きな七平クン。
 こりゃまあ、とんでもないサラリーマン物語を展開したが、笑いの大切なことは、これでよくよく得心がいったものと思う。
3 川面凡児を偲ぶ
 まだ読んでいないかたに勧めたい書物がある。神道系の霊覚者として川面凡児(かわづらぼんじ)の名は一部にはよく知られているが、知らない人も多いと思う。
 金谷真氏の著『川面凡児先生伝』は582頁の大冊だが、なかなか興味ふかく読める。白髯をなびかせた金谷老人は、1、2度私の宅を訪れ、この書物を知らせて下さった。金谷氏は直接川面凡児の教えを受けた人で、その師に対する敬慕の情は、なみなみならぬものがある。川面大人は文久2年大分県宇佐郡小坂村に生まれ、昭和4年67才で東京大久保百人町の私邸で歿するまで、実に不思議な生涯を送った。
 川面凡児ははじめ松涛泰成上人や黒田真洞上人について仏教の研究を深め(明治20年ごろ)、のち神道に転じ、神ながらの道を究めた。そのきびしい「みそぎ」修行は多くの魂を磨き出し、大正10年ごろは時の内務大臣床次竹次郎などが大の信奉者であったという。内相官邸で催した講演会の発起人には、杉浦重剛、平沼騏一郎、遠山満、蜂須賀侯爵、鵜沢聡明、寺尾亨などの名士が名をつらねている。当時の朝野をゆるがせたこの傑物も、私生活においては無慾恬淡、ただ道の一日も弘まらんことを願う謙虚な人であった。
 その神通力においては、当代並ぶものなく、オーストラリヤの大予言者フランク・ハイエット翁もかぶとをぬいだという話が残っている。ハイエットは当時(大正14年)75才の老人で、かのコナン・ドイルもこの老人の前に出ると蒼くなるというほどであった。ハイエット翁は、人間を意識の最高段階である第七階にまで高める指導方法をもつと称し、予言を試み、病者を癒やし、死者も蘇生させると豪語していたが、川面凡児(当時64才)から逆にその前世の縁を説き明かされ、日本では七つ星と呼ぶスラブ星座中のある紅の星に生まれた事、ハイエットは同星座の緑の星に生まれ、常時川面大人の星に来訪したということを知らされた。
 以下、金谷真氏の書物より原文を引用すると、
 「そうして貴下は緑の星でも、紅の星でも、腕白者で、わがまま者で、すべての人々に厄介ばかりをかけてゐられた。しかし貴下は一面禽獣を愛し、よき事を積まれたので、この人間世界に生れ来りては、その善根の報ひが現はれ、一見したところでは、さまで金子のある相格ではないが、恐らくは、何十万円、何百万円以上の富豪者であるに相違ない。しかし、貴下は貧窮の境より、今日の富をみな独力奮闘の結果にして、他より一銭一厘も恵まれたることがない。むしろ、はじめより今日まで、周囲の人々より、貴下の財産はむしり取られをるに相違ない。われは貴下とは反対に、紅の星にありてすべての天人と仲よく暮したのである。正直に寛容にして、人と争ふことがなかったのだ。その報ひでこの人間社会に生れては、15才以後は、父母の手を離れて、貧窮にのみ暮しつつ、今日もなお貧窮しつつあれども、われより人々に申し込むことなきも、神の御守りと、人々の同情とによって、何等苦しみなき、罪なき、清き美しき、お米お粥と野菜とで暮すだけは安穏である。われと貴下とは、かういふ天上界におけるむかしの契りで、今夕相会合したから、その親しみがわれ等両者の胸に流れ通ふので、わが家が貴下の家の如くおもはれるのである」
 そう言うと、フランク・ハイエット翁は、にわかに手を拍ってテーブルをたたきつつ躍りあがり、目に涙をうかべつつ、次のように叫び出したと、伝記者は書いている。
 「いかにもいかにもさうであったか。自分は先年より、神の暗示によって、緑の星より天降りたることを知り、われは緑の星より下りたる者である。緑は愛の表徴である。自由の表徴である。われは愛と自由の幸福を人類に与ふる救世主であるといふ意味の詩をつくり、これを歌ひつつある予言者である。この詩はこの通り新聞雑誌にも載せられ、人々に歓迎せられをるのである」
 そう言って、鞄から件の新聞雑誌を取り出して、川面凡児にそれを見せ、なつかしげに星の友の顔を見やった。英文通信記者木下乙市ほか何人かの同席者は、話があまりに浮世ばなれしていたので、ただ唖然としていたそうである。
 ハイエット翁はさらに語をついで、
 「いかにも左様であったか。左様であったか。自分は緑の星より天降れりとの予感によって信じてゐたが、まだその何の星であるかを知らなかったが、すらぶ星座であったのか。これは嬉しい。ありがたい。はじめて知ることが出来たのをよろこぶ。なほ自分の身の上もよく的中した。自分はオーストラリヤで、70万頭の羊をもち、数十万の財産はあるが、お説のように人に分けとられることが多いのである。天界のはなしで分ったが、今日のクリスト教徒は、他界を信ずる者を異端視すれど、むしろ他界を信ぜざるクリスト教徒のほうが異端である。この百千余の天体を見て、他界を信ずることを能はざるクリスト教徒は、愍(あわれ)むべきである。他界を信ずるまでに至って、はじめて、主の神の大なるを知り得るのである」と言った。
 この問答で、気負った老予言者の態度はガラリと変り、子供のように純真に、非常に敬虔な姿勢をとったという。
 この驚くべき二者会談は、世界大戦や世界の大地震のことまで及び、川面凡児は太平洋に新大陸が出現するというハイエット翁の説をうべなった。この話の詳細は原著の380頁から392頁にわたって記されている。