『AZ』 5号
 私はこの書物の巻末にある川面凡児の遺歌集「金鈴集」を山手線の車中によみ返し、心を打たれ、この章を書き出したが、一応ここで筆をおいたほうがよさそうである。
 (なお、同書発行所は東京都目黒区鷹番町33 みそぎ会星座聯盟・振替東京172,863番・定価750円)
 都路は人みちゆけど一人だにこころ動かす人のなかりき

 川面凡児大正13年の作である。ただ一人真理への道を行き、すでに六十有余年、世人と自分との距離はますます大きくなり、寂寥をかんずることも時にあったであろう。しかし、師は人を避け世より退くひとではなかった。

 人の世は人の道ありのがれ得ずしかにあらじか世を避くる人

 しかし、世の道をふむことは、決して世に迎合することではなかった。桃李の下おのずから蹊(みち)をなすと古諺もいう。

 聖(ひじり)やも住みゆく野辺は人つどひ花の都となりもこそせめ

 だが、この自信は、他に支えを求め、世の栄誉をもって心の慰めとするような性質のものではない。道に生きる者、達人の心境は、つねに内より尽きせぬ泉をくむことである。

 御心の通ひ来るか何事につけてもうれしこのごろのわれ

 この嬉しさは有頂天のはしゃぎではなく、事物の核心を徹見した明智より湧きいずるものである。静かに澄んだ心の鏡に、万物の実相が映じる。されば、

 天地(あめつち)の底より底にながれゆくひかりぞ物の力なりける

 という直観も可能である。この静けさも、一旦反転すれば、勃々たる力としてほとばしる。川面凡児のダイナミックな面を表わす歌を四首。

 天地もゆらがざらめやわが胸のおもひのちから高鳴りたてば

 白雲にのりて声立て大空におもひのままに高く泣かむか

 思ひたけびたけびて遠くこの道を弘めつつわれ天(あま)かけりゆく

 ともすれば天かけり出で鳴る神の如くわれまた叫ばむかとおもふ

 大人はまた、万人の心をおのが心とし、万物不二の域に住した聖者であった。静かに一室に坐しても、愛別離苦の煩悩に身もだえする世人の心はひたひたと伝わってくる。

 ものみなの心おもへばものみなの心なみうち打ちよせ来(きた)る

 その神ながらの道は、偏狭な宗教意識ではなかった。キリスト教も仏教も儒教も一つに包み容れる雅量があった。対抗と争闘に明け暮れしている宗教家に、警めの作をひとつ。

 名によりて神を分つは色により人を別つと同じからずや

 かくのごとき無差別・無私の心には、天地萬物が光を放ち、微笑をもって呼びかける。ただうれしく、すべてを受ける大愛の境地は、

 月を好み梅の花好み友を好み歌をも好みて寝ぬるうれしみ

 しかし、覚者もまた自己を観る目は峻烈である。

 かくまでも弱きわれとは知らざりき世に笑はれて独りかこちつ

 人間はどこまでも人間である。十字架上のイエスの絶叫も、同じく悲痛なものだった。聖者と言い覚者というも、その種はわれわれと同じである。しかし、その弱きをとらえて、己れの卑劣の弁護とするのは、よこしまな業である。しかし、真に弱き者は真に強い。見よ、次の一首を!

 かくまでも強きわれとは知らざりき恐るべきもの未だかって見ず

4 都路は人みちゆけど
5 峠
 石垣りんという女流詩人がいる。書肆ユリイカから『私の前にある鍋とお釜と燃える火』という題の詩集が出ている。
 同名のよしみもあって、ある日の『図書新聞』にのっていた次の詩に注意をひかれた。

      峠
 時に 人が通る、それだけ
 三日に一度、あるいは五日、十日にひとり、ふたり、通るという、それだけの−−
 −−それだけでいつも 峠には人の思いが懸かる。
 そこをこえてゆく人
 そこをこえてくる人
 あの高い山の
 あの高い木蔭の