『AZ』11号
重さに喘いでいる。
 陽光はいつもサンサンと照っている。だから斜面をころがろうと、どうしようと、まわりにつけた雪ダルマは所詮(しょせん)消える運命である。だから安心して何もしないがいい。
 何かせぬと運命の好転はできないと決めこんで独りで焦っている人がいる。それはウソだ。かく申す私も、送っていた時期はやはりそう思って、あれこれ模索した。しかし、今となれば、はてはて無駄骨を折ったものかなと、盤珪さんなみの嘆声を発したくなる。真理は一つ、昔も今も、アメリカも日本も、すべて同じに違いないのだが、迷う道筋は実に千差万別である。悟りは迷いと別の所にあると思って、人はさまようのであるが、実は迷い・悟りと分けられるものではない。悟りは迷いのなかにある。もがくのをやめたとたん、このことが豁然(かつぜん)としてわかる。
 豁然の「豁」は“ひらけた谷”という意味であって、今までは「谷間の人生」とか言って、八方ふさがりの、希望もハリもない暗黒の生きかたをしていたのだが、目をひらいてみれば、その谷はひらけていた。
 ひらいた谷とは、青空も見えるし、谷の切れ目も見とおせる地帯である。この先何百里もあゆむかなとウンザリしていたところに、パッと前方が見え、牛が草をはむ彼方の牧場も見えてきた。心も躍るではないか。
 悟りては悟り路を行く
 迷いては
 悟りというも迷いなりけり
 という盤珪和尚の歌は、もうこの「ひらけた谷」に出た者の心境をのべたのである。迷悟不二という処に出て、今さら悟り出そうとアガかなくなれば、これはもはや迷いようがないではないか。
 何もしないのがいいですよ。
 なんにもしない。そうすると廻りでいろんなことがおこってくる。それについて、つづいて書いてみよう。軽くなる一つの道を、である。
5 攻撃されたとき
 お釈迦さまのことばにーー
 「一次の謗を経験すれば即ち一分の冤愆(えんけん)を了す」
 というのがある。
 一次とは一回という意味。冤とは「あだ、うらみ」、愆とは「あやまち、とが」ということだ。つまり、
 「一回、人からそしられると、それだけ、その人の過去の罪が清算される」
という意味である。
 避難攻撃は、凡人から聖賢にいたるまで、地上では避けがたいことである。これは、来ないようにすることがドダイ無理で、来るのがあたりまえである。だから、人のそしりを嫌うのがまちがっている。
 私もこの仕事を始めて、四方八方から矢を受け、初めのうちは元気に応戦していたが、そのうち面倒くさくなった。浜の真砂とドロボウの数と同じで、これはキリがない。一生や二生、必死に防戦にこれ努めても、とてもラチが明かない。それがわかり出すと、矢はからだに刺さりぱなしにしておいて、構わず歩むことにした。
 そうすると新しいことに気がついた。それは、反撃するとかえって敵の数がふえるが、矢の一本ふえるたびに、ああ有難や、これで過去の負債が一つ返せたと思っていると、なるほど、それだけからだと心の重みが減る。この軽くなる気持は、またと得がたい心地よいものである。もっと来ないかな、と心待ちにする気さえおこり、イソイソとしてくるから妙である。
 逃げると敵も追ってくるが、ニコニコと手をひろげて迎えれば向こうも手加減をしてくれるらしい。手加減を期待してはダメだが、イエスの「右の頬を打たれれば左の頬も」という教えも、これと同じことであることを、みなもどうか体験で悟ってもらいたい。これは特別の人だけが出来ることではなく、だれだって、キミもボクもできることなのだ。
 冒頭の仏語は“道親報”という大阪で出している新聞から紹介されたものだが、この団体の小林慈海という先生は、次のような歌を今年の初めに作られたそうである。

 皮をはぎ取り
 肉を取り
 骨をもしゃぶる人様を
 憎くないかと問うたなら
 牛は静かに首をふり
 只「忘」「望」と二つなく

 「ただモウ・モウ」−−いい言葉じゃないか。忘れて、なにもかもカラッポになって、もう一つ出るのは「望」だけである。二度目のモウは、いのちのことばである。生きているかぎり、何がなくても「望」はある。このモウを純粋に出そう。
 あとは言うことがなくなった。
6 感激の無価値について
 また、私の言うことは世間の通念と違っている。アマノジャクだと言って、こういう表現法をきらう人もいる。
 それに、四角四面のヤグラの上に登ったような頭脳をもった人は、リンサンの思想には矛盾が多いといって、それを指摘し、「だからついて行けない」と文句をいうかと思うと、「いや、矛盾があろうと、“気分”を受けとっていけばよい」と弁護してくれる人もいる。
 私には弁護も味方も必要ではないが、この「AZは気分でうけとる」というのは何かナマぬるい、あいまいなものに思える。私のつもりとしては、いつもギリギリの真理を金鉄の響きをもった表現でするどく打出しているつもりであるからだ。AZの思想がスキだらけにみえて、実は金城鉄壁の緻密さを有する論理で構成されていることを、私だけは少なくとも知っている。
 このごろのAZにはついて行けぬという人がだいぶ増えて来たいっぽう、最近号はどれも無駄な装飾がなくなってスッキリよく判ると言う人もいる。数から言