『AZ』11号
ったら、前者が多いようだから、これは民主的方法では決められぬものらしい。

 ふつうの場合、論理という外的拘束形式があって、思想はそれに逆を取られて引きずられて行く。そして世間の論理なるものは、常識観念を土台にして、習慣的な水路を流れるように、前もって規定されているから、よほど気をつけないと、純無垢の生命思想は濁らされてしまう。
 逆説と背理と飛躍とユーモア−−この4つは生命が人間のコトバを征服し統御する際の「道具」である。この四つ道具を自在に使いこなすことによって、真実の論理構成が出来上る。人まねでない自分のコトバが語れる。これを心がければ、だれでもユニークな思想家になれるし、一筆にして百万人を動かす力を獲得できる。しゃべる言葉の場合も同じだ。飛躍をオッカナガル人は、いつも時候のあいさつから会話を始めねばならない。そのあいだ、相手はアクビを噛み殺さねばならないのに、それに対する思いやりもない。
 人と話をするとき、とくに重要な用件になると、一時間もムダ話をつづけたすえ、「実は・・・」と用件を切り出す。これは性格のせいもあるが、アタマがもうそんなふうに不具的に出来ているからだ。この不自由なアタマの硬化現象に気づいたら、早くブチこわすことだ。冗舌家は人をウンザリさせるばかりか、自分の貴重な時間を殺している。一言ですむことに、百万言を使う人間は、どうしたって他人から取りのこされる。一事が万事だからだ。物を考えるときも、仕事をするときも、いつも廻り道をする結果になるからだ。

 以上の私の冗舌もほんとうはゆるしがたきものである。この章で言いたいことはひとこと、標題のままズバリである。
 しかし、このズバリは頭脳硬化症の人には苦痛を与えるということを、私は知っている。素直にスッとそれを受けてくれる人は、暁天の星のごとくすくない。だから、あとの冗舌はみな「痛み止め」の軟膏の作用をしている。私のオシャベリは親切のためなのであって、知識をひけらかすためでもなく、自己満足のためでもない。だいたい書くということは、私の苦役である。何の因果でこんなことをせにゃならんのかと、嘆ずることしばしばである。物分りのいい人がもっと沢山いたら、私は黙っていても、ほかの人が代弁してくれるから、私はひとりで腕を組んでいりゃいい。しかし「石も叫ばん」である。圧力差を一刻も早く減らしたい一心で、私はモノを書く。そして書いてしまえば排泄の安堵がある。私が文章を書くよろこびは、感激や熱中ではなく、ウミの放出のような解放感だけである。

 感激がこの章のテーマである。
 世界中、とくにこの国では、感激は尊いことになっている。感激家というと純情にきこえ、何を言っても反応のない人間よりも、頼りにする傾向がある。
 感動は青春の特徴であるから、アタマが禿げかかった年でも、容易に感激する人がいると、あの人はまだ若い、エネルギーがあると言って、人は感心する。とにかく、無感激より感激が高等だという暗黙の承認が世のなかにある。
 感激は伝染性をもっているから、感激家が一人グループのなかにいて、手をふり廻したり、涙を流したり、わめいたりすると、少なからぬ数の人がそれに似た気分に引きこまれる。そして、いつも索莫とした灰色の人生に灯をつけてもらったような感じになって、その快感にひたり、また感激を与えてくれた人に対して感謝したいような気持になる。
 こうして感激家は周囲に弟子や共鳴者を作る。赤尾敏などもその一例であるが、ここで下手に悪口を書くと、早速手下の一人がリンサンを殺しにくるおそれがあるから、これはあんまり言わぬほうがいい。
 もっと精神的・霊的な問題で感激する人がいると、周囲はますますその人を信用する傾向が出て来る。小児マヒを救えとか、原爆を止めろとか、世界平和のために生命をすてよとか、大義名分が崇高になるにつれ、この傾向は甚だしくなる。
 しかし、ここでビシッと言わせてもらおう。
 感激家のグループは烏合の衆である。百害あって一利ない。感激家はカマが焼けすぎるのも知らずに石炭をどんどん放りこむ火夫みたいなものだ。感激家は節度を知らない。感激家は盲目である。火のなかに飛びこむ蛾のたぐいである。
 AZは熱心家を製造しない。AZはむしろドライアイスのごとき冷却剤である。アタマの熱くなった連中に冷水を浴びせて、正気にもどらせる。それが使命であるらしい。
 しかし熱した人に「さましなさい」と言うのは、清姫の袖をとらえて「安珍にはニキビが出来たよ。男前がさがったから諦めなさい」というくらいムダなことに思える。
 これは一種の熱病だから、むしろ逆療法でうんと暖めて発汗させたほうが早いのかもしれない。私はしばしばこの手を取ってきた。だから人によってはリンサンも熱心家の一人だと誤解した場合もあったかもしれない。
 だが事実は逆である。私はノホホン族の一人である。私が熱しているようにみえたら、それはカモフラージュにしかすぎない。私は元来熱することを警戒するタチである。いろいろ熱病にかかってにがい経験をなめたから、もうすっかり冷め切ってしまったのである。
 去年あたり、地球が壊滅して、宇宙人が助けに来てくれるという風評があたまに来て、リュックに食料や毛布をつめこんで、毎日毎夜そのことを考えて頭を熱くしていたグループがあったそうだ。この熱が高まっている期間は、周囲から何と言っても無駄だから、困ったものだ。
 感激は自分の感情をコントロールできないところから来る。つまり人間が感情の奴隷になるのである。怒りのような感情はとっくに卒業をしたつもりの人であっても、前にのべたような人類の安危というような高級な大義名分にぶつかると、手もなく感激病にかかる。こういう人たちは、まだ魂年齢が若いといえる。かれらはもっともっと体験をつまなくてはならない。
 だから、この文章は「変わり目」の時機にきている人たちだけを目標にして書かれた。感激の真最中の人には馬の耳に念仏である。しかしうまくカンゲキ(感激)のカンゲキ(間隙)をねらって、この冷却ミサイルが誰かの魂のなかにとびこんだら、実にもうけものと言えるだろう。
7 神癒エンジニアの大量養成
 前号に書いた矢部貞夫氏(掌でガンも治す人)と会った日の夜(2月14日)、
帰宅してみると、京都のS氏という未知の人から『ヨガ問答』で私の論文を読んだ