『AZ』11号
と言って、ノイローゼの治療について相談のハガキが来ていた。
 私の父は故松居松翁(アリの町の桃楼氏の父上にあたり、明治期の有名な劇作家)の創始した霊気療法を昭和初期に伝授され、以後私の家族は歯医者とお産以外にはほとんど人の手を借りずに、病気の治し合いをしてきた。患部を見つけ症状を知る感度からいうと、父が一番で、次に妻、母、私の順である。ところが、放射力というか、治療力になると、私の順位がグッと上がって、父とどっちこっちになる。それは私に手をあててもらった人々が、奇妙に気持がよいと言ってくれるので、私自身は半信半疑のまま、それを認めざるを得なくなった。
 スブドでも、霊的治療はゆるされており、その場合は手をあてる必要もなく、同室でラティハンをおこなうだけで足りる。これは、もっとも純粋に神の治癒力がはたらく場合で、人間は単なる道具の役割をするだけである。われわれは治そうと力む要もなく、また、きっと治るからと空(から)約束もしない。スブドでは、治る治らぬは神の計画のなかに入っているのだから、人間としては何の約束もできぬと、徹底した立場を取っている。
 しかし、こうして京都のような離れた土地の病院にいる病める同胞から依頼を受けると、いったいどうしたらいいかわからぬ。
 そこで私は手紙の返事を書きさしにして、祈りに入った。その十分間ほどのあいだに与えられた啓示はおどろくべき明確さをもってあらわれた。その要点を左(下)に示そう。

 1.病気は必らず治る。
 2.あらわせ、あらわせ。
 3.私の身体を発振体にかえる。
 4.神癒能力には伝播性がある。癒されたものは、こんどは癒すものとなる。
 5.神癒作用には距離の遠近は関係ない。
 6.神癒能力開発には、時間を決めて行をする必要もない。
 7.いやせ、いやせ。

 啓示の性質として、容赦ないほどの、明確さと迫力で押し寄せてくる。「しかし、こういう場合は?」というような私の疑念は全く無視され、押し流されて、問題にならない。
 治るから治せ!
 それだけのことである。その内容を引きのばすと右(上)の七カ条になる。それをもっと詳しく述べて、さらに説明を延長しよう。私は聞いたままを伝えるのである。その内容については、私は責任がないともいえる。真理が勝手に真理を語るのである。

 まず大事なこと。だれでもが霊的治療家になることができる。地上の病気を一掃するためには、治療家の数が多すぎて困るということはありえない。ある霊能者が一人で「特権」を占有して、ごく限られた範囲の人を治しているという現状は、もうすぐ全く別のものになる。
 次に、病気とは肉体の病だけではない。金欠病という財政上の病気、他人との対立不和という社会上の病気も含まれる。あらゆる不調和・トラブルは病気である。
 病気が治るのは、病気と格闘してそれを征服したり駆逐することではない。意識の次元を高めて、「病気の存在しない世界」に出るだけのことである。
 神癒家は百パーセント神の全在・全知・全能を体感しなければならない。神の全在は条件づきではない。脳腫瘍のおこっている部分には、神が存在していないというのは、錯覚である。また、いまさら、神にねがって病気を治してもらうというような手間は取らされぬ。神は全能だからだ。さらに、神にむかって、この人(または自分)は脊椎の第三関節がカリエスをおこしていますから、これを治して下さいというような「報告」も、不必要だ。神は全知であるから。
 また、生長の家式に「神は完全円満」というような分り切ったことをお題目みたいに自分に言いきかす必要もなく、健康という状態を心の目にマザマザと描き出す努力もいらない。すべて努力はいらない。
 神癒には訓練も練習もいらない。偉い先生に何千円か払って伝授してもらうこともない。一週間も泊り込みで講習を受けることもない。
 「価なく受けたれば、価なく与えよ」である。
 病人があなたのそばにいる。坐って祈って上げなさい。台所でネギを切っているときにも、人知れず祈りなさい。電車の吊革にぶらさがっているときも、思い出したら祈りなさい。
 その祈りかたーー
 想念は不要。神に懇願も不要。ただそのまま神の全能・全知・全在のなかに入ってしまう。何もしなくてもいい。神に熱情を注ぎ出さなくてもいい。真空ポンプで神の井戸から汲み入れることも無用だ。
 スッと神のふところに抱かれる。神はすべてをやってくれる。あなたは何もやらない。「神の道具」だという身分を誇りに思ってもならない。神は無限数の道具をもっておられる。何も今さら、あなたを道具の一つに加えなくてもいい。我と神と二つがあり、我が召使で神は主人というニ元観は邪魔だ。我即神ーーこの一元のなかに飛びこむ。
 頼まれたら、決してヘドモドせず、病床のわきでカラッポになり、あなたの全体をくまなく神に任せ、あなたという個人が一かけらもなくなるまで、この「無心の祈り」のなかに溶け込め。方法など何もない。頼まれたら祈る。ただそれだけ。治るも治らぬもない。手を差しのべたければ伸べる。言葉を出したくなれば出す。帰りたくなったら帰る。風のごとく、水のごとく。

 神癒のエンジンが、あなたのなかに眠っている。油を補給して回転を始めればいい。この意味で、私は“神癒エンジニア”という言葉を創った。
 「神癒エンジニアになりたい」
 この希いだけで結構である。ねがっただけで、もうあなたは神癒エンジニアになっている。この事実を確認するため、私は神癒エンジニアの一人として。ひるもよるも、意識の切れ目、仕事の切れ目に、サッと祈る。日本中に散らばった他の神癒エンジニアたちも、たえず「仲間」と同調して、自分が“神癒エンジニア”であることを確認しよう。
 この確認のアンテナとして、私は切符のごときもの、証明書のごときものを出そうと考えている。この章をよんで、趣旨に同感された人は、巻末の申込書を送って頂きたい。私はその人たちの名前を書斎の南の壁に一面に記そう。そして共に祈ろう。
 「一人よりも二人、二人より三人で」
 この輪はひろがって、偉大な神癒キャラバンが形成されるであろう。病気の同胞も、まずこの神癒エンジニアになろうという正しい願いをおこすといい。人を治す