ここのも、自分を治すのも同じことだ。自他は不二にして一体、人類は同根同体である。自分の病気だけをいつも考えて、これを治そう治そうといつも苦しんでいるのはどこか狂っている。スタートがわるいから、やり直そう。ダイヤルを正しく合わせればそれでいい。
 
『AZ』11号
8 分かろうとしないほうがよい
 AZは分からないという声は、あなただけでなく、幾人かの同胞から聞きます。
 無理はないとは思っています。もう私は、言葉で表現できない世界に入りながら、その消息を一種の暗号で語っているからです。それは「しおり」のようなもので、私が山を登る道すがら、かたわらの枝を折って、あとから来る登山客のために残しているものです。
 だいたい書物というものは、自分がその著者と同じ段階、またはそれ以上に行かなくては、本当には分からないもので、実際にそこまで行ってしまえば、こんどは書物そのものが不必要になるという厄介な性質をもっています。つまり、どの段階においても、書物はあんまり役に立たないのです。しかし、こう言えば、私がものを書いているのはまるっきりナンセンスになってしまいます。そのナンセンスをなぜ私は飽きもせず継続しているか。これは新しい問題となります。
 私は人に分からそうと思って書いているのではないということを、前にもなんどか言ったと思います。私はただ排泄衝動にかられて書いているだけです。排泄というと何かキタナイものに感じられますが、それは必ずしもそうではありません。子供がころんで膝小僧にケガをして泣く。そのとき出た涙は排泄物です。しかし、それが汚いと言って、わざわざ目をそむける人もいないでしょう。排泄したものは、ただそれとしてそこにあるのですから、キレイとかキタナイとか決めるのは、あなたの主観的な判断です。私のうちには、もうすぐ満一年がやってくる聰ちゃんという赤ん坊がいますが、この子が毎朝便器にウンウンとかわいく力んで出すウンコを、オヤジの私がときどき見とれていることがあります。まさかつまんで嘗めたりはしませんが、見ていてあきないし、またキレイなものだなと感心することもあります。
 排泄ということをひろく解釈すると、あなたがボーナスを思いがけなく沢山もらってイソイソ家に帰るとき、思わず鼻唄が出たりするのも、排泄の一種です。なにも、この鼻唄の意味をすれ違う通行人にわからせよう、などという意図はないでしょう。ただ出た、それだけです。
 私の文章もそんなものです。ただ出た・・・・。
 だから、頭脳をしぼってその意味を突き止めようとして、あなたみたいにヘトヘトになったというのは、全く笑止千万、というと失礼ですが、ナンセンスの上塗りですね。
 鼻唄はただ耳に入るままにしておけばよい。それをあとから追いかけて、
 「もしもし、あなたの鼻唄はどういう原因で発生し、どういう意義をもっているか、お聞かせねがいたい」
 などと喰いさがったら、相手はビックリ仰天して、「キエーッ」と悲鳴をあげるでしょう。だれだって、キチガイと幽霊がそばに寄ってくれば、気持のいいものではありません。
 音楽をきいているときだって、その音の行列を全部こまかく理解し暗記しようなどと張り切ったら、5分とたたぬうちにくたびれてしまいます。ポカポカした気分で、それとなく聞いているのでいいのです。音と一しょに遊んでいられるからこそ、あなたは楽しくなり、緊張も溶けるのではありませんか。
 私の文章は、わかろうとチットモせずに、目を走らすように眺めて下さい。
 「ヘエッ、そういうこともあるのかね」というくらいの軽い気持ちでいいのです。そして読んだ先から忘れて下さい。それ以上やるとノイローゼの原因になります。百円出して買ったんだから、一行でもわからないとX円損するーーまさかそんなことは考えないでしょう。
 わからないのを分かろうとするーーこれは慾です。慾はあなたを苦しめます。苦しみたくなければ、慾は捨てましょう。
 AZの読みかた一つでも、堂に入れば、ほかの人生諸事もラクになります。わからないのはそのままというコツ。これは何にでも応用できます。
 「あいつは、あんなにオレが面倒をみてやったのに、どうしてサカ恨みをするのかな。ひどいやつだ。どうにも解せぬ・・・」
 これは苦しみの原因になります。解せぬなら解せぬままに放っておいたらいいでしょう。時が来たらわかります。その恩知らずの友人の真意もわかり、心から同情できるときも来るでしょう。また、誤解をといてやる智慧もうかぶでしょう。
 「こんなに一生けんめいに働いたのに、どうして社長はオレを首にして、あの要領のいい山田を部長に昇進させたのかな」
 と毎日ヤケ酒をあふっているのは、愚かのきわみです。あなたのわからない所に、もっとも大事な人生の法則がある。しかし、それがピンと来ないところに、あなたの盲目性が証明されたわけですから、見えない目をいくらけんめいに見張ったって、見えないものは見えない。時期が来るまで放っておくのですね。
 焦るのをやめて、自然に放置しておけば、逆になんでもわかってくるものです。これが面白いところです。AZは衛生無害のやりかたで、このコツを会得する予備練習をあなたにやらせているのです。
 練習は何だって一足飛びに名人の域には行けません。毎日毎日すこしづつの積み重ねです。ダンスを習いながら、教師の足取りの癖が気になって、
 「あそこをああやれば、もっとうまい模範になるんだがなア」
と、しょっちゅう批判をやっていたら、あなたはフォックス・トロットの初歩さえ覚えられませんよ。最初は、とにかく先生の通りに一しょに身体を動かし、足を運んでみるのです。そうすると、自分の身体を通して、先生が教えたがっていることの真意がつかめます。先生が不幸にして軽い関節リウマチにかかっていても、よくよく注意すれば、リウマチとは関係なしの正しいステップを身につけることができるのです。
 以上は、私の自己弁護みたいにきこえるかもしれませんが、私自身、実は今まで無数の先生に会って、とにかく自分を無にして先生のもっているものを百パーセント吸収しようという、慾張りな修行をしてきたので、最近は独りで踊ることができるようになったのです。
 あなたも、かならず近いうちにコーチなしで踊れるようになります。だから焦らず、分かろうとしないで、無心に身体だけ動かしていてください。「もっと平易に、わかりやすく教えてくれないかな」と呟いているのは、だいたい劣等生の部類に入ります。先生のほうは、こういう教えかたのほうが、生徒の将来を見こしたとき、いちばん良いという判断をもっているからこそ、そうしているにちがいないのです。自分の癖を逆に押しつけたりしないで、先生の癖にまず同化して下さい。どうせいつだって、先生の癖から脱け出すことはできます。しかし、あなた自身の癖